「暗いところで待ち合わせですか?」
と、その老人は言った。
待ち合わせ広場のなるべく光が当たらないところに私は居た。 眩しいのは苦手なのだ。
私は読んでいた文庫本を閉じると、彼が着ている上品なツイードのジャケットを見て、 今年の始めに買ってまだ袖を通していないツイードのワンピースのことを思った。 次のお出掛けにはもう着てもいいな。 今日だってずいぶん寒くなった。 でも、ツイードを着るには11月になってからじゃなくちゃ。
「どっちの手に宝物が、入っているか?」
老人は握った両手を私に向かって突き出した。
「右。」
少し考えてから私は答えた。 こんなふうに私は突然声を掛けてくる見知らぬ人に返事をしたりしてしまうのだ。
宗教の勧誘とか、 何かのキャッチセールスとかじゃない、つまり、まあ、一般的に言うと、変わった人に。
どうして返事をしてしまうのかわからない。 なんていうか、そういうことをやっちゃう性格なのだ。
そして、彼らが雑踏の中でなぜ私を見つけ出してしまうのかもわからない。
多分遠い昔、 彼らは犬で、 私はその犬に埋められた主の片方の靴かその家の子の人形かなんかだったのだろう。
見つかってしまった時には、いさぎよく認めるしかないのだと思う。
「はずれ。」
老人は、なぜかほっとしたような顔をして右手を開いて見せた。
老人の開いた右手には、老人が言ったように何もなかった。 その右手にはこの駅の一階にある屋内の待ち合わせ広場の上のほうにあるガラス窓からの光が当たって、 それは太陽にしっかりかざした時のように透き通り血管が手をさらに明るく見せていた。
ぎゅっと結ばれた左手のほうは老人の手とは思えないほど 艶やかな肌色で、そう、まるで10代の若者のように美しい手だった。
老人の左手は固く結ばれたままだった。 はずれた人には、ご褒美はなしだぞと言うような頑固さで。
だから、その手の中には、何か老人の言う ”宝物” とやらが本当に隠されているのかは私にはわからなかった。
「つきちゃん、 ごめん待たせた?」
りょうちゃんが5分遅れてやってきた。 この広場には正時になると人形が出てきて踊りだす大きな時計がある。 待ち合わせ場所に大きな時計があるのは便利なようだけど罪でもある。
「ううん、大丈夫。 そんなに待ってないよ。」
私達が向き合って会話をしている間に老人は黙ってすっと離れて行ってしまった。
りょうちゃんは、 老人の姿をちらっと目で追ったあと向きを変えて歩き出し、 腹、減ったーと言った。
私はりょうちゃんの歩く方向について行った。
「ナンパされてたの?」
「やだ。 まさか。 ・・・ちょっとおしゃべりしてただけ。」
「あの人、 腕が片方ないんだね。 戦争で失くしたのかな。」
「え?」
「片方、肩のあたりからぺっちゃんこで、袖がぶらぶらしていたじゃない。」
「どっち?」
「え、どっちだったけかなー。」
「ね、どっち?」
「えーと、」 りょうちゃんは立ち止まると、あの時の老人の位置を思い出すように私と向かい合った。
「左手だった。」
「確かに?」
「うん。 そう、こうやってこっち側だから・・・、うん、左がなかったよ。」
「そう・・。」
「ね、 つきちゃん、今日は何の本を読んでたの?」
「あ、これ?」
私は 乙一 の、 暗いところで待ち合わせ という本をりょうちゃんに渡した。
私は、はっとした。 さっきの老人は何て言って私に話しかけてきたのだったっけ。
「どんな話?」
「ん・・。 乙一は、短篇作家なのよ。 暗黒童話 という長篇がひとつあるけど。 聞いてる?」
「聞いてるよ。 つきちゃん、乙一、好きだよね。」
「目の見えない若い女性が一人で暮らしている家にね、 警察に追われている殺人事件の容疑者の若い男が逃げ込むの。」
「なんだか、 あれみたいだな、 オードリー・ヘップバーンが出てた ”暗くなるまで待って” というサスペンス映画、 あったじゃない?」
「そうね。 でもこれサスペンスじゃないの。 目の見えない女性も、誰かこの家に居るなって気付くんだけどね、 最初はもちろん脅えるんだけど何にも危害を加えてこないし、これは気付かないふりをしてたほうがいいなって。」
「うん。」
「男のほうも、 どうやら静かにひっそりとしていれば、この女には見えないからばれないだろうって。」
「ばれるだろう。」
「うん。 ばれる。 でもね、 お互い気付かないふりをしながら奇妙な共同生活が始まるの。」
「おもしろそうな展開じゃない。」
「気付かないふりをしながら、 なんていうか、 女は二人分のシチューを作ったりね、 男は女が消し忘れたストーブの火を消してあげたりね。 そんなふうに暮らすのよ。」
「へー。 でもその男、 警察に追われてるんだろう? 犯罪者なんだろう? どうなるの?」
「それはねー。 うーんとねー。 読んでください。 これね、ばらしちゃうと実は、恋愛ものよ。」
「今日、借りていってもいい?」
りょうちゃんはいつの間にか、 私の本をジャケットのポケットに仕舞い込んでいた。
「え、だめー! 二度目だけどまだ読みたいの!」
「じゃ、 どっちのポケットに入っているか当てたら返してあげるよ。 右のポケットでしょうか、 左のポケットでしょうか?」
「左!」
「う、 当たってしまった。」
「そうよ。 私、そういうの絶対当てるのよ。」


