9月になって10日が過ぎた。 頭も身体も重くだるくてしかたない。
食事を作ろうと思ってもメニューがなかなか決まらない。 読書に対する集中力もなくなってしまったみたいだ。
夏の疲れが出てきたのだろうか。
石鹸を変えることにした。
敏感な人は 店の500メートル手前からくらくらしてしまうだろう。
多種の色と香りの固形石鹸が100g単位で売っている店だ。 固形シャンプーや固形コンディショナーもある。 バスタブに落とすとシュワーと泡立つゲンコツ大の丸い入浴剤や、ボディソープ、スキンケア用品など。
ひとつひとつは魅力的な香りだが、 店内はそれらが全部混ざって複雑な香りを放つ。
ネーミングもおもしろい。
たとえば (ヴィーナス誕生)。 たとえば (恋の導火線)。 たとえば (ごめんねダーリン)。
成分や効能や目的によって 名前がつけられているらしい。
店の中に積んであるたくさんの石鹸やボディクリーム、シャンプーに鼻を近づけて嗅いでみる。
ひとつひとつは個性的な香りだが、嗅ぎ比べていると4つくらい前に嗅いだ匂いの印象を忘れてしまう。
手首から二の腕まで 少しずつ試供品をつけて嗅ぎ比べているうちに混乱してきた。
「どんな香りをお探しですか?」
「身体のだるさや疲れを取って、気持ちが一新できるような石鹸・・かな。 リラックスしすぎず、ハイになりすぎず。」
「そうですねー、 好みもありますからね。 では、これはいかがですか?」
店員が差し出した石鹸に鼻を近づけて香りを嗅ぐ。 ベルガモットの香り。 それとなんだろう? でも少し明るすぎる匂い。
名前を見ると、 (ブラジル娘の唄 ・・ 陽気なサンバのリズムに合わせて、気分はプラジルの歌姫、カルメン・ミランダ!)
「ここまで ハイになりたくないんですが・・」
「では、これは?」
ピンク色の石鹸を指し示す。 べたべたとした甘い匂い。 飴玉みたい。
(ロックスター ・・ おいしそうで、 楽しい気分になれるお菓子のような甘い香り)
めまいがしてきた。
この店で買い物をする時の注意点は、 一分でも早く済ますことだ。 それなのに長く居すぎたようだ。
「あの、自分で探しますね。」
一旦 店の外に出て 新鮮な空気を吸う。 遠目から見て 色でだいたいの見当をつけ、石鹸のそばに寄り 香りを嗅いでみた。
よし、これにしよう。
ターコイズブルーの色の石鹸。 名前は (シーベジタブル)
包んでもらっている間に、 見本品の説明を読んだ。
・・ (どうもやる気が出ないときは、これで全身を洗ってみてください。 海の塩がお肌を適度に刺激して、同時にライムオイルの香りが頭をシャキッと目覚めさせます。 バスルームから出る頃には、ほら、 お肌いきいき、やる気もモリモリ出てきたでしょ?)
ピンポーン ピンポーン
防音扉が開いて、田中さんが顔を出す。
「こんにちは。」
「こんにちは。」
「暑いけれど涼しい風もありますね。」
「涼しい風も吹きますが暑いですね。」
「何曲かお願いします。」
田中さんは、 私の顔をじっと見る。
じっと見る。
いつもは5秒ほどで ぴったりの曲を判断してくれるのだが・・・。
じっと見る。 むずかしい顔で じっと見る。
そんなに重症なのだろうか。
「つきこさん。」
「はい。」
「なんだかすごい香りに包まれて つきこさんが見えないんですが。」
あ。
「いつもの勘が働きません。 それは いったい・・・?」
「どんなイメージの香りになっちゃってますか?」
「うーん、 難しいです。 えーと、 ロンドンでやっと見つけた青空のような・・・ いや、 5月の草原で朝露に濡れた草を踏んだような・・・、 いや、うん、 雨のニューヨークで古本屋の前でホットドッグをかじっているような・・、 いやいや・・ ジブラルタル海峡でサンタクロースが浮き袋につかまってぽっかり浮かんでるような・・ タヒチの・・・ うーん。」
「ごめんなさい。 LUSHに寄ってきてしまって。」
「あー、あそこね。 しかし(香り)って、すごいもんですね。 混乱しますよ。」
「多分、ひとつの傾向に向かっている香りなら、混乱しないと思うんですが。」
「そうですね。 いやー、ものすごい武装です。」
「・・物騒?」
「いえ。(武装)」
あー。
つきたてのやわらかなお餅が伸びていくような長い間を断ち切るように ようやく田中さんが言った。
「今日は、僕だめですね。 つきこさんのほうから何かリクエストありましたら。」
「うーん、どうしようかな・・。 私もわけわかんないので・・ そうですね 思い切ってがんがんハードに
ディープ・パープルなんかは?」
「え? パープル・・、 はあ・・ はい! いいですよ。 なんでもいっちゃいましょう!」
「ガツンとお願いします。」
ギターを選び、 音を調整する。
一曲目に
HIGHWAY STAR続けて
SPACE TRUCKIN’ そのまま
SMOKE ON THE WATER すごいすごい! ひとりライブだ。 部屋がどんどん熱くなってくる。
田中さんの顔から腕から汗がぽたぽたと落ちる。
「ありがとうございました!」
「弾き出すと集中して 匂いが全く気にならなくなりましたよ。 いやー、たまには パープルもいいもんですねー! つきこさんに パープルを弾きたくなるような雰囲気の時なんてなかなかないですからね〜。 そういう日は僕のところに来ないですか、 はっはっは。」
「今日は混乱させてしまってごめんなさい。 しばらくこの香りが残ってしまいそうですね・・」
「いえいえ、 この国籍不明のドンチャン騒ぎの残り香で 画期的な 曲が作れるかもしれないですから。」
・・国籍不明のドンチャン騒ぎの香り。
「ごめんなさいね。 十分換気してくださいね。」
「いやいや、なかなか 世界万国博みたいで、良いですよ。 ははっ。」
本当の話だが、 田中さんは リッチー・ブラックモアより うまい。
その後ドトールに入って アイスコーヒーを飲んだ。
右隣でクロックムッシュを食べていた人が、私のほうを見て 心持ち鼻を近づけると 少し椅子を遠くにずらした。
ホットドッグとケーキとコーヒーをお盆に乗せて私の左側にいったん座わった人が、30秒くらいすると、席を移った。
そうか、 このドンチャン騒ぎの世界万国博な香りは 食事にも 不適合なのね。
私は、開きかけた
三谷幸喜 の
気まずい二人 を 閉じると、 アイスコーヒーを半分ほど残して 店を出た。
三谷幸喜は脚本家でありながら 初対面の相手となかなか打ち解けられず会話するのが苦手だそうだ。
そこでわざと苦手なタイプの女優やタレントを呼んで対談をしてみたという実験的な対談集です。
ここには、13人の芸能人(女性ばかり) との対談が 載っていますが 月刊誌で対談した時は16人いたそうです。 ところが単行本にするにあたって 「本にするのは罷りならん」 と 2名の事務所からダメが出て、 あと1人は雑誌に載せることさえ拒否したのだそうです。
「やっぱり猫が好き」や「古畑任三郎」などを書いているのに、女性と話すのが苦手 (それもほとんど 怒らせてます。) なんて おもしろいです。
[この本の使い方として] 以下のように使用方法が書いてありました。
@ 対談集として楽しむ
A 戯曲集として楽しむ
B HOW TO本として活用する
三谷 幸喜〔著〕
角川書店 (2000.2)
通常2-3日以内に発送します。