新宿から湘南新宿ラインに乗って北鎌倉で降りる。 長い乗車時間になるので本を一冊持ってきた。
キョンナム の
ポッカリ月が出ましたら という エッセイだ。 行きに半分読めたが、帰りは本を開かなかった。
約束の時間より15分前に着いたが、美咲さんはすでに来ていた。
二人でタクシーに乗り父の墓参りに行く。 手を合わせる前から美咲さんは泣いていた。 実は私の姿を認めた時から涙ぐんでいたのだけれども。
そのあとゆっくりと鎌倉まで歩いた。
美咲さんは父の最後の奥さんだった人だ。 父のえーと、1、2、3・・、そう4番目の奥さんだ。
「前にも聞いたことありましたが忘れてしまって・・ごめんなさい・・、 おいくつになられましたっけ?」
美咲さんは照れくさそうに教えてくれた。
私より九歳上だった。
「美咲さん、 私の父と結婚した時、今の私より若かったんですね。 なんだか信じられないわ。」
「どうして?」
「20歳も年上の人なんて。」
「年齢なんて・・・。 あんな素敵な男性が独身で居るなんて奇跡よ。」
「美咲さんが36歳の時、父は56歳だったのね。」
「離婚して半年くらいだったし、結婚どころか男の人と付き合うのでさえもうこりごりと思っていたのに。 人生ってわからないもんね。 生きてるものね、と思ったわ。」
「結婚する時、父は若くはないし、つまりその10年後とか20年後のこととか計算しなかったの?」
「つきこちゃん、 誰かを本当に好きになると将来なんて考えないものよ。 私は一緒に暮らせれば籍なんてどうでもよかったのよ。」
「でも、父がプロポーズしたのね。」
美咲さんは、真っ赤になってしまった。
「結婚は考えてもいなかったの。 でも、プロポーズされたら2秒後には 『よろしくお願いします。』 って答えちゃってた。 自分でも驚きよ。」
美咲さんはその時のことを思い出したのかくすくすっと笑った。
「幸せだったのね。」
「うん、短いけど幸せだった。」
父は最期の一年近くは入院していたのだ。 美咲さんは一日もかかさずに父を見舞い、一日の半分を父と過ごした。
朝、お弁当を持って病院に行き病院食を食べる父の隣で一緒に朝食をとり、一旦家に戻ると昼食用のお弁当を作ってまた父の傍で食べ、夕食も同じようにする。 それを一年近く毎日。 片道30分かけて。
病院の隣に住んでいたとしても私にそんなことが出来ただろうか。
最後のほう父は点滴だけになってしまった。 すると私の見舞いを拒んだ。
「つきこちゃん、ごめんなさいね。 お父様は自分の痩せた姿をつきこだけには見せたくないっておっしゃるの。」
あの父ならそう言うだろうな、と思った。
亡くなる2日前から父は意識がなくなった。 それでも見舞ったら父は怒るだろうな、などど矛盾したことを思った。
父は想像していた以上にやせ衰えていた。 もうけっしてこちら側には戻ってこないことはその姿を見てすぐにわかった。
「話しかけると、瞼が動いたりするの。 だから聞こえてるのよ。 つきこちゃんが来たってきっとわかるから、話しかけてみて。」
「お父さん、怒らないかな・・・」
「怒らないわよ。」
怒れないのよね。
私は別人のようになってしまった父に声をかけた。
「お父さん」
驚いたことに父は薄く目を開けたのだ。 そして 「つきこちゃん。」 と言うとまた閉じた。
私はびっくりして美咲さんを見た。 (意識がなかったんでしょ?)と目で聞いた。
美咲さんはほんの少しの驚きの顔のあと、私に向かって (うん、うん)と頷いた。
「いっしょに・・」
声が小さいので耳を父の顔に寄せる。
「吉祥寺に、行って、コーヒー、飲みたいな。 渋谷に、出て、それから、井の頭線に、乗るんだ。」
それだけ話すのに一分くらいかかった。
私は顔を戻すと美咲さんの耳に向かって小さな声で言った。
「美咲さんと私とごちゃまぜになってない?」
「ううん、つきこちゃんだってわかってる。」 美咲さんは涙でぐしゃぐしゃの顔をしている。
私はもう一度 父の口元に耳を寄せた。
「お父様、つきこよ。」
「吉祥寺で、美味いコーヒー、飲もうよ。」 目を閉じたまま父はひとことひとことゆっくり言った。
「うん、飲みましょうね。」
「つきこ。」
「はい。」
「つきこは、僕の。」
「はい。」
「マイ、 スィート、 レディ、 だよ。」
病室を出てエレベーターの前まで行くと私は顔をあげて美咲さんを見た。 そして二人とも涙でくしゃくしゃの顔のままプッと吹き出してしまった。
「やっぱり父は、私と美咲さんを混同してないかしら?」
「ちゃんとつきこちゃんってわかってるわよ。 2日前から話すどころか意識がなかったのよ。」
「そう。 あの、さっきの 『マイ スィート レディ』 って聞こえました?」
「お父様って、ホントどんな時でもああいう人。」
「そうなのよね。」
いつもダンディで。 いつもカッコつけていて。 いつも洒落たジョークを言って。 いつも女性にモテていて。
それが最後の言葉で、父は翌々日に死んでしまった。
美咲さんと鎌倉駅で別れるとき、ずっと気になっていたことを聞いてみた。
「あれは、 ジョークで私を笑わせようとしたのかな。 それともダンディの部分を見せようとしたのかな。」
「うーん、難しいところよね。 表情がないし。 最後の言葉だったし。」
「あれは、 美咲さんに向かって言ったんだと私は思うの。」
最後の言葉が美咲さんではなく私に言ったらしいことが長いことずっととても申し訳なく感じていた。
「ううん、 あれは絶対、つきこちゃんに言ったのよ。」
改札の手前で私は手を差し出して美咲さんと握手をした。
「美咲さん、 父を愛してくださってありがとうございます。」
「私も愛されたのよ。 お父様が最初に愛した女じゃなく、最後に愛した女になれたのはすごく幸せ。うん、誇りに思ってるの。」
今日一日の間に何度も涙を見せた美咲さんだったが、その言葉を言った時美咲さんははっきりと微笑んでいた。
父と暮らせたのは生まれてから7年しかなかった。 大人になってからは好きな時に会うことができたが、 色々と遠慮があって実際はそう頻繁には会えなかった。 まるでデートのように吉祥寺の井の頭線の改札で待ち合わせて、会うとすぐに父の腕に手をからませた。 そして珈琲の好きな父と美味しい喫茶店を探しながら何軒も梯子した。
でも私は、父が暮らしたどの女性よりも短い時間しか父と過ごせなかったんだな。
『マイ スィート レディ』 の 言葉は やっぱり 私のものとしてもらっちゃおう、もう決めちゃおう。 そんな決心を帰りの電車でしたら、とてもとても嬉しくなった。