2006年04月30日
4月29日物語 : (番外編) 夢
眠れなくてふらふら放浪していたら見つけたバトンを拾って帰ってきました。
■ 夢バトン ■
・小さい頃の夢は?
→ あまりお客の来ない古本屋の奥に座っている店番の人になること。
もしくは、 おせんべいを火鉢で焼いて醤油を塗って売る人になること。
・その夢は叶いましたか?
→ まだ。
・現在の夢は?
→ 小さい頃と変わらず。 & 英国に永住。
・宝くじが三億円当たったらどうしますか?
→ 貧乏な知人たちに二億円分を配ってから、 住居兼古本屋を開くかおせんべい屋さんを開くか、 その商売は英国で出来るかどうか悩む。
・あなたにとって夢のような世界ってどんなもの?
→ しばらく英国で暮らしていた時のあの気持ちの世界。
・昨晩見た夢は?
→ そのチョコレートとおせんべいはお母さんの分だから食べないでと娘に念を押している夢。
・夢についてききたい人を五人
→ ○○さん、△△さん、だれそれさん、よろしかったらいかがでしょうか。
あなたの今夜の夢があなたの見たかったあの夢でありますように。
おやすみなさい。
4月29日物語 : 使いみちのない風景
世間はゴールデンウィークだというのに、わたしはどこにも行けない・・・
なんて気持ちはまったくわきません。
今、おんも怖い怖い病になっているからではなく、もともと旅行ってあまり好きではないから。
旅行って帰ってくることがわかっているから旅行なんですよね。
行っちゃったら行っちゃったまんまできるだけ長く帰ることを忘れていられるほど行ってしまいたい。
春樹さんは、 ある雑誌で自分の「略歴」を読んで、なんだか深く考え込んでしまうことになった。
そこには 「趣味は旅行をすること」 と書いてあったからだ。
春樹さんは、 旅行が趣味だなんて考えたことはただの一度もなかったけれど、 たしかにこの7年ばかりほとんど日本に住むこともなく、 あちこちと流れ歩いているわけだし、 そう思われても仕方ない、と思う。
もし人間を放浪型と定着型 ― あるいは狩猟型と農耕型というべきか ― のふたつのカテゴリーに分類することができるなら、 僕はかなりの確率で後者の方に属することになると思う。
じゃあどうして定着型の人間が何年もに渡ってそんなにあちこちと移り歩いたりしているのか。
結局のところ僕は 「定着するべき場所を求めて放浪している」 ということになるのではないかと思う。
春樹さんは話を続ける。
僕が見てきた風景はおおまかに二種類に分けられる。
必要に応じて意識的に引き出せる風景の記憶と、
まったく唐突に、ほとんど身勝手に、僕の前に姿を現す風景の記憶。
後者のような記憶が頭の中にふとよみがえるたびに、僕はこう思う。
「やれやれ、 なんでこんな風景をいつまでも覚えているんだろう。 どうしてよりによって今、 こんな風景を思い出さなくてはならないんだろう」
僕らの中に残っている幾つかの風景、 いくつかの鮮烈な風景、 でもそれらの風景の使いみちを僕らは知らない。
まったく唐突に、ほとんど身勝手に姿を現す風景は、 リアルな夢に似ていると、春樹さんは言う。
つきこさんは、そう、ほんとにリアルな夢みたいね、と思う。
そしてやはり、その風景の使いみちはわからない。
そんなリアルな夢の使いみちだってわからない。
村上春樹の文章と、 稲越功一の写真とで、 トリップ。
使いみちのない風景 村上 春樹文 / 稲越 功一写真 中央公論社
2006年04月29日
4月28日物語 : 仮面うつ病って?
作家さんもするのよね、 志茂田景樹さんて。 品川プリンスホテルで見かけたことがありますが、きれいな女性2人連れて、そしてあのファッションでした。 足が長かった。 超短パンにタイツはいた足が。
心療内科 志茂田 景樹 Kiba Book
志茂田さんの外見のイメージとは別物の小説です。 ちょっと奇抜といえば奇抜かなあ、 特に性的シーンが。
でもきっとそんなふうになるだろうなとラストが予測できてしまい、 裏切って欲しかったけれど。
思春期、 青年期を仮面うつ病と闘った著者が新境地を開いて世に問うわが国初の本格心療小説!
と 扉に書いてありますが、 はて、そうなのだろうか、 それなのにどうしてラストが予測できたのだろうか、 心療内科の医者が患者と関わっていくうちに、 みずから、 こころの迷路に入りこんでいくというのは、 ありきたりのような気もするが。
ストーリーではなく、 患者の病名と症状が一致するよう「本格的」にきちんと調べてあるということなのかな?
心療内科や精神科の先生って、 患者の話を真剣に聞いているうちに恋愛関係に陥ってしまう場合があるとはよく聞く話ですが、 ここに登場する八木橋先生(♂)は、 女性患者とすぐお付き合いしちゃうんですよ。 それも同時に数人と。 これって特権? 職権乱用?
それに待合室に特殊な鏡を置いて、患者にばれないようにこっそり診療室側から患者たちの様子を見てるなんて、ずるいというかいやらしいというか。
それぞれの患者たちも恋愛関係に陥ったり、 ある殺人事件を担当する刑事も、 その事件の犯人である中学生も患者で来てたり、 ひとつのクリニックにぎゅうっと人間関係縮小版が詰まってます。
八木橋先生は患者たちの話を毎日聞かされたり、 女性患者と倒錯の世界に入り込んだりしているうちに、 自分の正常じゃない部分に気付かされて、 そのうちに何が正常で、 どこまでが正常で、 どちらが正常なのか、 その境界線があやふやになり、 最後は自分も同業の医者のところに診てもらいにいくのだ。
なんか私、 この本がつまらなかったように書いてますね。 ううん、 わりとおもしろかったです。 あ、この症状、ちょっと私に似てる。 でもここまでひどくはないわよね、 あーよかった、 なんて思いながら。
ところで、志茂田さんがかかったという「仮面うつ病」 ってどんなのでしょう?
2006年04月27日
4月27日物語 : 恐るべし車谷長吉
赤目四十八滝心中未遂 車谷 長吉 文芸春秋
良い大学を出て会社勤めをしながらも 安定した生活を突き破りたいという衝動に囚われる男。
「私が私であること。」に堪えがたいものを感じ、 安定の世界に身を置けば 「私が無意味に流出して」 しまう恐ろしい気持ちがする。
男は何の当てもないのに会社勤めを辞め、 旅館の下足番、 料理場の下働き、 やくざのたまり場のお好み焼き、 安酒屋と流れて、 尼ヶ崎の出屋敷に辿り着いた。
ブリキの雨樋が錆びついた町で、アパートの一室で来る日も来る日も、焼き鳥屋で使うモツ肉や鳥肉を串に刺し、その日の生活費を得るのだ。
そのアパートには彫り師やその情婦、 一つの部屋を使う数人の若くはない娼婦たち、 ヤクザやゴミを漁って食べている老夫婦などが生息している。
安定した収入を得ていた会社勤めにも自分の居場所を見つけられず、 底辺の生活者たちからも、 ここはお前のようなものの住む世界ではないと言われるが、男はもくもくと串に肉を刺す日々。 そこにかつて小説を書いて雑誌に投稿したときに才能を見込んでくれた男が彼を探し出して訪ねてくる。 また小説を書けと言う。 小説など書くものか、 小説を書くなどということは、 病死した牛や豚の臓物をさばくのと何の変わりがあろう。 探し出されてしまったからには、もうここにも居られない、しかしどこへ行けばよいのだろうと思う男に、 彫師の情婦は 「うちをこの世の外へ連れて逃げて」 と 誘うのだった。
この作品も脚色はあるとしても、 車谷さん自身の生き方に沿ってますよね。
車谷さんの書くものは情念と執念に溢れていて、 へたなホラーより人間の凄みが効いてて怖いです。 書くものはというより、 車谷さんが怖い。
119回直木賞受賞したこの作品は映画化もされてます。
主人公を、大西瀧次郎。 内田裕也さんが彫り師役です。 情婦が寺島しのぶ
監督 荒戸源次郎
2006年04月25日
4月26日物語 : 贋世捨人
作家自身が主人公である自伝的小説である。
二十五歳の時に 「西行法師全歌集」を読んで発心し、 自分も世捨人として生きたい、 と思った。
高校受験で失敗し姫路地方では一番下の高校に通うことになったこと、 蓄膿症の手術で中途半端に失敗してその病をかかえていることなど、 劣等感がひとつひとつ刻印されていきながら、 著者の世俗的なものを嫌う傾向が育っていく様がわかる。
贋世捨人(にせよすてびと) 車谷 長吉 新潮社車谷さんは強情で執念深く、 なんて薄気味悪くて恐ろしい人だと思った。
高校生のころから人を殺したいという欲望をいだいていたり、 街で見かけた女に一目惚れをしてストーカーまがいのことをしたり、 運転ができないことで仕事に支障が出て困っているくせに、反時代的に生きたいからと頑なに免許を取らなかったり(そのくせ他人の運転する車には乗る)。
禅寺に入門したくて京都に行っても、凄まじい修行の話を聞いて怖気づいて決心がつかず愚図愚図と悩む。
妹の 「兄ちゃん、 慶応まで出とって、 とどの詰まりは料理場の下働きやないの」 という言葉にかっとして、椅子で頭をぶちのめして妹の眼球に傷をつけてしまったり。
無一物になる、と思いながらも作家として賞が欲しい名声を浴びたいとも思う。
西行、鴨長明、 吉田兼好、 松尾芭蕉、 一休も世捨人として生きたというが、どうやって飯を食っていたかというと、 荘園や社領の上がりで食べていたらしい。 彼らのその言葉は兎も角、 生活面ではみな贋(にせ)世捨人だったのではないかと気付く。
俗物を憎み、反俗、非俗の生き方を求め自分をどんどん落としていきながらも、どうあっても俗世界から離れては生きていけない矛盾と逃れようの無い自分の俗物性に苦しみ、 やがて彼は自分に小説を書くしか脳がないことを悟っていくのだ。
そうしてこの小説のように自分の醜い秘事をさらけ出しおのれを切り売りするような私小説家と呼ばれるようになったわけだが、
本書の中の
「小説を書くことも、 広告と同様、 騙しである。 併し(しかし)広告の騙しは商品を売り付ける手段であるのに対し、 小説の場合は、 嘘を書くこと、 つまり騙しそのものが目的である」
の言葉のように、 いったいどれが本当のエピソードでどれが嘘(騙し)なのかが、こちらにはわからない。
たくさんの著名な作家や政治家や企業名が実名で登場するので余計騙されやすい。
本人の体は切って売っても良いが、親戚に決して書くなと言われた身内の秘事を書いてしまったり、実在の著名人のあまり良くない話を織り交ぜたりして、そのうち誰かに名誉毀損で訴えられたりしないだろうかと、少々心配になる。
自伝的なものには、 その作家の恥ずかしい部分だけでなく、 必ず笑わせるエピソードや少々カッコよく脚色してるだろうな、の部分があるのだけれど、 この車谷長吉の場合、 醜い部分ばかりだ。
目が離せなくなるほどみっともなく醜悪だ。
そう感じた時点で私は、 車谷長吉の書く「私小説」という名の作品の罠にはまってしまったのだと思う。
事実、 彼の作品をもっともっと読みたいと思う。
ん〜やられた。
2006年04月23日
4月23日物語 : どのお父さんがいいかなー
20歳になったばかりの頃、 入院して開腹手術を受けなくてはならないことになり、 とても落ち込んだ。 麻酔も怖いし切るのも怖いし、傷跡が残るのではと心配だったし、 再発も怖かった。 楽しみだったのは、 入院中にたくさん本を読めるだろうことと、 手術中にひょっとしたら天井に取り付けられたライトの周りにあるだろう反射鏡に、 切られて開腹された中身がうつって見れるかもしれないということだった。 切る時は部分麻酔で、縫う時に全身麻酔にすると医者が言っていたから、切っている最中は意識があるわけだ。
入院する日はとても落ち込んでしまい、 こんな気持ちでは回復も遅くなるからと、 できるだけくだらなくておもしろく、 小さな事で悩んだり落ち込んだりすることがバカらしくなるような本を持っていこうと思った。
本屋さんに寄り、 中島らもの明るい悩み相談室 のシリーズをあるだけ買って持っていった。
おかげで縫った傷口が開きそうになるほど笑わせてもらえて、 明るい入院生活となった。 いまでも感謝している。 もう一度読みたいな。 保存図書として家に置いておきたい。
自分の躁鬱病やアルコール中毒などを材料に書いた本は何冊か読んだことがあるけれど、 そんな中島らもが書いた児童書ってどんなのかな? と思い読んでみた。
お父さんのバックドロップ 中島 らも4つの短編に4人の父親が出てきて、それぞれの職業は、 プロレスラー、 落語家、 魚河岸の大将、 テレビ番組制作者。
それぞれの子どもたちが親の職業を恥ずかしがっていたり、 親の性格を恥ずかしがっていたりで、 尊敬とは程遠いところにある父たちなのだが・・。
中島らも自身も躁鬱病になったりアルコール依存症だったり、はちゃめちゃな生活をしていた人らしいけれど、 確か娘さんがいたはず。 2年前の7月に、 酔って階段から落ちて頭を打って亡くなったんですよね。
私の父は最期に出てくるテレビ番組制作者のお父さんにタイプが一番似ていました。
娘の小学校の先生が家庭訪問にやってくることを知ると、 ロックンローラー(?)の格好をして出迎えようとたくらむのだ。
金属のトゲトゲのビスをいっぱい打ち込んだ革ジャンにジーパン、 革のブーツに真っ赤なティーシャツ。 頭は金とむらさきに染め上げたモヒカンがりで、 おまけに顔にはド派手なペインティング。
娘に 「ね、おねがい、 やめてったらお父さん。 なに考えてんのよっ!」 「お父さんのばかっ!」 と言われても計画を止めようとしない。
どうしてそんなことをするのか聞く娘に父親は答える。
「それはな・・」 「うん」 「・・・おもしろいからだ。」
このお父さんもいいけれど、 プロレスラーのお父さんもいいな。 ふふ。
4月22日物語 : ひきこもってました
午前中、町内会長がやってきて 「一年間ご苦労様でした」とねぎらってくれた。
思ったほど忙しい仕事でもなかったし、 会合だってお茶すすってるだけだったし。 あとは総会出てお終い。 お役ごめんで嬉しい。
だーれもなり手がいなくてみんなうつむいて長い沈黙が続くとそろっと手をあげてしまうこのあほな性分から脱するぞ! と強く心に誓ったのに。
午後、娘の入学後はじめての懇談会があった。
あー懇談会かあ、行きたくないなあ。 でもこれから6年間娘がお世話になる学校のはじめての懇談会だものねえ。 だけどいっぱい人がいるんだろうなあ。 でも知らない人ばっかりだもの、誰とも親しく会話する必要ないから大丈夫かなあ。 どうしよう。 サングラスで防護して電車に乗るか。 でも教室ではいくらなんでもサングラスははずさなくちゃならないし・・。
「役員が決まるまで誰も帰れませんよ」と担任に脅されて、それでもみんなうつむいてしーんと時が過ぎるのを待っている。
あほな誰かががまんしきれずに手をあげるのを。
3人中2人は、最初からその気だったらしくすぐに手をあげた。 あと1人。 しーん。 ちっちっち(秒針の音)。 しーん。
5分経っても10分経っても決まらない。 ちっちっち。
そろっと手があがった。 あほなつきこさんでした。 あーあ、やっちゃった。
ここのところ体調が悪く、精神的にも鬱々としていて、必要最低限の買い物と本屋さんと公園にぼーっとしに行くくらいで、「会話」する気が起きなくて人からのお誘いもみんな断ってほとんど引きこもり主婦をやっていたのに、 ああいう場面に置かれると 「絶対、できない」 というほどの理由が見つからなくて、 つい。
おかあさんみたいなのを 「おっちょこちょい」と言うんだよと子どもに言われたけれど、 そうかも。
でも、これで「引きこもり主婦」から脱っせるかもとも思ったのだ。
どうしたのか、人と目をあわせるのも会話に突入するのも怖くて、スーパーに行くのでさえサングラスかけてそそそっと済ませてる。 なんか近ごろちょっと変だよな、つきこさん。 危ない。
いや、見た目のこと(だけ)じゃなくて精神的に。 と、分析できるうちはまだ大丈夫よね。 ね? 誰か 「うん」と言って・・。
全然関係ない本だけど ハミザベス
ハミザベス 栗田 有起 集英社栗田有記さんははじめて読みました。 これはすばる文学賞とやらを受賞したものだそう。
死んだと聞かされていた父親が本当に死んだと知らされて、その上マンションを相続することになった20歳の女の子。
母ひとり子ひとりで生きてきたその母子の会話がとても素直に気持ちを出し合っていて清々しい。
父の愛人だったという20歳の女の子も感情を素直に言葉に出せる良い子。 なんかとても大人で、20歳の頃、そんなに大人だったかなあ、 えらいなあこの子たち、色々あっただろうに性格がひねてなくて、と思いました。
思い返してみると、もしかして、私も20歳のころは今より大人だったかもしれないな。 近ごろ富みにこどもっぽくなっている気もします。
愛人の職業も父の職業も不思議な職業で、父の精子はふつうより巨大で、 愛人の卵子もふつうより巨大だそうで、 研究施設に提供しているそうだ。 精子を製造する男性のその部分も広げると畳一畳ほどあるほど巨大なものだそうで・・、は? なんでしょうこの小説と読んでいて驚いた。 驚いたけれど、登場人物たちがばたばたと騒いでいないので、 私もあまり驚くのはやめて静かな文章の流れに身を任せました。
母と子の自立を描いたお話でしたね。 雰囲気が吉本ばななに似ていました。 吉本ばななほど心情を言葉にする感性が研ぎ澄まされていないけれど。 これが第1作目の作品だそうで、 すでに他にも何冊か出ているそうですが、どうなのかな? うまく育っていきそうな要素は十分ありますが。
さらっとした文章より、行間がむちゅーっとつまっていて登場人物達の性格が少しひねていて、せっぱつまった状況に置かれてもがき苦しんでいるようなもの、 ねっとりどろどろしたものを読みたいと思う今日この頃。
だからちょっと物足りなかったです。
あ〜、役員かぁ。 責任感の名のもとに、どうにか自分をお外へ引きずり出させよう・・。
2006年04月21日
4月20日物語 : 怪物
アイムソーリー、ママ 桐野 夏生 集英社
養護園の保母だった67歳の女とひいきの園児だった25歳年下のなんだか異様な夫婦の話から始まり、 「ほら、もう明るいでちゅよ。 大丈夫でちゅよ。 クック脱いでお手て洗うのよ」 などと赤ちゃんごっこしたりして、 気持ち悪いなー、 この二人のどちらかが主人公なわけ? と思っていたら、 二人は第一章であっという間に殺されてしまった。
食事に行った焼き肉屋で、たまたま同じ養護園出身のアイ子に何十年ぶりかでばったりと会い、 その夜のうちにアイ子に灯油を掛けられてあっという間に焼き殺されてしまうのだ。
展開が早い。 と思ったが、 アイ子が人を殺すのが常に早いのだった。
過去を知っている人間はすぐ殺す。 お金が欲しいからすぐ殺す。 妬ましいからすぐ殺す。 今まで何人殺したか、アイ子自身さえよく覚えていないのだ。
この小説の中には、自分勝手な人間ばかり登場する。 みんな誰かを妬んだり羨んだりの醜い人間ばかりだ。 その中でもアイ子はダントツに醜く邪悪だ。
邪悪な怪物みたいな女で、金品を盗むのも、人を殺すのも、夜露をしのぐ為に男と寝るのも平気だ。
最後、追われて隅田川に飛び込むのだが、生き伸びるのか死んでしまうのかわからないまま唐突に終わる。 なんだか13日の金曜日のジェイソンのように復活しそうなアイ子です。
あそこまで邪悪に書いているなら、 エミという元娼婦を土に埋めて殺すときに 「実は私があなたの母親だ」 と告白されても、 涙など流さずに徹底して邪悪にすれば良かったのでは? と思うのだが。
でもそれでは、 I'm sorry, mama. というタイトルにならないかな。
母の顔も知らずに娼館で虐められながら育ち、誰にも愛情を与えてもらえなかった悲惨な生い立ちからアイ子という怪物が形成されていくのだが、そういえば、アイ子はどこにいるのか生きているのか死んでいるのかもわからない母親を少しも恨まず探し求めていた。
でもちっとも同情心、わかなかったです。
リモコンをピッと押してテレビを消すように簡単に人を殺す恐ろしい人間と、殺人まではしなくても、しょうもなく身勝手で醜い人間がいっぱい出てくるのに、なんだろう、笑ってしまうの。 登場する人たちの短絡的思考のそのセリフが、 ああ、こういう人っていますねえ、と可笑しいのよ。
隅田川に飛び込んだものの、 復活してきそうなところもなんだか可笑しかった。
これは、桐野夏生の本の中でも、 東電OL殺人事件をもとに書いた 「グロテスク」 と似たタイプ。
桐野さんは 「グロテスク」 「残虐記」 「I'm sorry, mama.」 の三つを グロテスク三部作と呼んでいるそう。
初めて桐野さんを読むなら 「OUT」 や 「柔らかな頬」 から入ったほうがいいかなと思います。 ぞわぞわ寒気がするほどの残虐さだけを言えば、「OUT」のほうがずっと上でしたが。
それにしても桐野夏生って、醜悪な人間をこれでもかこれでもかと書きますね。
2006年04月19日
4月19日物語 : 注目
車谷長吉(くるまたにちょうきつ) の 忌中 の一番目に収められている話 「古墳の話」の最初のほうに 「私は死刑制度絶対存続論者である」 と出てくる。 「オウム真理教の麻原彰晃(松本智津夫)教祖、及びその配下の実行犯などは許し難い。 麻原彰晃は本質的に犯罪者的人間である。 こういう手合いは東京市中引き回しの上、 磔(はりつけ)獄門にしたらよいのである。」
「また山口県光市母子殺害屍姦事件の犯人である18歳の少年なども、当然、死刑になってしかるべきである。」 と続く。
折りしも昨日(4月18日)、 山口・光母子殺害事件の上告審が結審した。 判決言い渡しの期日は後日指定されるそうだ。
この古墳の話という小説のなかではさらに、 [藤井誠二 「少年に奪われた人生(犯罪被害者遺族の闘い)」(朝日新聞社)] が引用されており、 この事件の経過を報道されている新聞記事より詳しく知ることとなった。
【私は事件発生当日、 仕事を終えて帰宅し、 押し入れの奥で服をはぎ取られ、 手首と口を粘着テープで縛られ、 ゴミのように捨てられていた妻と対面した。
いつもは優しい笑顔で 「おかえりなさい」と温かく迎えてくれる妻とは異なり、 その体は氷のように冷たく、 表情は決して穏やかではなかった。】
そして章が変わり、「昔、私の女友達も強姦殺人の憂き目に遭った。」
と、主人公の高校時代の話に移っていく。
思いを寄せていた同級生と古墳めぐりという同じ趣味で親しくなっていくのだが、初めてのデートを約束した後、 それが果たされる前に彼女は殺されてしまうのだ。
そこから数十年後に、主人公は殺された女友達のために古墳に立って慰霊祭と称して祝詞を上げるのだが、その難しい(私には)漢文の祝詞を、 う、これは手強いぞと思いつつしっかり読んでしまった。
忌中 車谷 長吉 2003.11 文芸春秋車谷長吉の小説では、日時、地名、人名などがそのまま出てくる事がほとんどなので、 読んでいてどこまでがノンフィクションで、どこからがフィクションなのかわからず、 一人称の語り口で報告文学(記録文学) ふうに書かれているので、緊張感も高まり引き込まれてしまう。
作家自身の身辺の事実をもとに書かれたものも多いのだろうが、 まさか表題作の「忌中」は違うだろう。
病気の妻と心中を決めしかし死に切れなかった主人公が、 先に殺した妻の遺体を茶箱に押し込め、 毎日その腐っていく様子を眺めては自分も早く後追い死をしたいと思いながらずるずると先延ばしにし、 それにはまず自分を生きて行けない状態(金が一銭もない状態)に追い込むことが必要だと、 返す当ての無い多額の借り入れをし、パチンコやヘルシー・ランドのマッサージ嬢につぎ込んだりしながら散財した挙句、とうとう金が尽きると「忌中」と書いた紙を玄関のガラス戸に貼り付け、人生を終わらせる。
ずいぶんわがままな死に方だ。
しかし、心中事件で片割れ(時に子ども)を先に殺しておきながら、自分は死にきれませんでした、などという話はわりとよくあるようで、死を間近に見た途端、我に返ってしまうなんてずいぶんな話だ。
それに比べたら、数日遅れでも後を追うこの主人公は一応罪悪感、責任感らしきものがあるのだろうか。 いや、 もう、 投げやりなんだろうな。
その立場になったことがないから声高には言えないが、 「忌中」の主人公の行動は実は奇異には感じられなかった。
車谷長吉の描く作中人物のねっとりしたタールみたいな部分をなんとなく理解できてしまう。
そういう説得力のある小説を書く人だと思います。
私はかなり注目しています。
2006年04月17日
4月17日物語 : 中華そばの味
昭和30年中頃から40年半ばあたりの東京の下町とその町に住む人々が生活に必要なものをほとんどそこでまかなえるアカシア商店街を舞台にした連作短編。
ホラーといっても朱川さんの作品はいつもノスタルジックな匂いが強くて、 その雰囲気を楽しんでしまうので怖さが半減します。 それがもう朱川さんの作風として安定してきてますね。 ずっとこの路線で行くのかな。
私はこの作風がとても好きですが。
忘れかけた遠い昔を思い出すと、 誤った記憶や都合の良い誤解や幼い思い込みも混ざって、 理屈では説明できない不思議な現象が確かにあったような気がしたりします。
ホラーとノスタルジックは意外と相性が良いのかもしれませんね。
都電が近くを走るこの町のアカシア商店街には、レコード屋、 ラーメン屋、 酒屋、 スナック、 ガラス屋、 肉屋、 古本屋などが並び、 近所には覚智寺という小さな寺があり、 読みながら誰もが自分の知っていたそれぞれの懐かしい町を思い出すのではないでしょうか。
かたみ歌 朱川 湊人 2005.8 新潮社そこに長く、 または青春の一時期を過ごした人々の物語ですが、 どの話にも古本屋の主人がキーパーソンとして出てきます。
この町の覚智寺というお寺には、 昔からあの世と繋がっているという噂があり、 確かにこの町には不思議な出来事が多く、 町の人のよき相談相手となっている古本屋の主人も、実はあの世に行ってしまったある人に逢いたくて覚智寺のあるこの町に流れてきた人だったのです。
子どもを置いて駆け落ちしてきた男女が仲睦まじくひっそりと暮らしていたが、ある殺人事件がきっかけとなり、 子どものもとに帰っていくことになる 「紫陽花のころ」。
古本屋に置いてある1冊の本を介して文通していた相手が、実は何十年も前にフィリピン沖海戦で亡くなっていたその本の著者だったという 「栞の恋」。
など7つの短編が入ってます。
この本を読んでいると、中華そば食べたくなります。 麺が細めで真っ直ぐで(もしくは少し縮れてて)、 醤油味、 メンマとチャーシューとほうれん草とナルトとネギと海苔が入っている、 あれ。
2006年04月14日
4月14日物語 : 泣かない女はいない
ピサの斜塔は、作っている途中で実は設計ミスに気付いていたのではないか、ということを思う主人公の睦美。
なにか変だぞと思いながらもいちからやりなおしたりせず完成させてしまった。 理性的思考が欠如していたとしか思えない。 それが倒れずに幾百年の歳月を過ごしているというのがまた愉快だ。 細心の注意も、 万事よろしく事を運ぼうとする抜け目なさもなく、 ただ運のよさだけで建ち続けているということに、 なんだかとても救われる気持ちがする。
こんなふうな出だしで淡々と始まり大きな盛り上がりもなく淡々と終わる話なのだけれども、 途中から不思議と引きずり込まれる。
大宮を走るシャトルに乗って周囲には工場や畑くらいしかないところにある物流会社に勤める睦美には一緒に暮らしている彼がいて、 別に不満に思ってもいないのに、職場の男性に少しずつ惹かれていってしまう。 その気持ちに自分自身で気付いた睦美はいっしょに暮らしている恋人に打ち明ける。 恋人に打ち明けてからではないと、 職場の男性に想いを伝えるわけにはいかないと思うような性格の睦美は、過去にほとんど泣いた記憶のない女性だ。
職場の忘年会で行ったカラオケで睦美が好きになった男性が歌う歌が ボブ・マーリーのNO WOMAN NO CRY
同僚の女の子がどういう意味なんですかと聞くと 「泣かない女はいない」 と答える。 家に帰ってから恋人のCDラックからボブ・マーリーのライブ盤を探し出し歌詞カードを見ると、 ノーウーマン、ノークライの繰り返しのところには 「女 泣くな 女 泣くな」 と出ていた。
ラスト、好きですと告げようとしていたところに、 彼から転職の話を先に告げられ言い出せなくなってしまう睦美。
No Woman No Cry は、 There is no woman who doesn't cry を略した言い方なのだから 「泣かない女はいない」 が正しくて、 「女 泣くな」 なんて変な訳しかたよね思いながら読んでいた私は、 うずくまるように顔を落とした睦美の胸にきっと鳴り響いているだろうその曲は 「女 泣くな」 なのだろうなと思った。
主人公といっしょにバックミュージック付きでその場所に取り残されたような気持ちになってしまうのは、 長嶋有の上手さです。
しかし、 ここに入っているもう一編の センスなし も、 以前に読んだ 猛スピードで母はも、 「女ってわかんないよな」と男性に言わせてしまうような女の「わかんないよな」の部分を書くのが上手すぎて感心してしまう。 本当に男性作家なのだろうか? (本当に男性です)
カヴァー裏に「二人のデート」という掌編が収録されています。
泣かない女はいない 長嶋 有著
2006年04月12日
4月12日物語 : お腹召しませ
「現代のサラリーマンの 『月給と賞与』 という給与体系も武士の 『扶持米と切米』 を引き継いでいるもの。
幕末も今も、人の生き方はほとんど変わらないということを描きたかった」
幕末から維新にかけてを舞台に 浅田次郎が描く侍たちの6編の物語。
お腹召しませ 浅田 次郎 2006.2表題作の お腹召しませ。
入婿が藩の公金に手を付けた上、新吉原の女郎を身請けして逐電。 お家を保つために御留守居役が出した名案は「腹を切れ」。
屋敷に帰り報告すると妻は、 なるほどそれは名案、 旦那様のご決心でお家の危急が救われるのであれば、 まさしく男の死に処でござりましょう、 「お腹召しませ」
娘からも、 後のことは心配なさらず、 「お腹召しませ」
死にゆくもののひがみなのか、 妻からも娘からも少しも悲しんだ様子が感じられず、 せっつくように 「お腹召しませ」 と言うその顔は晴れがましいようにさえ見える。
数刻ののち、 奥の間の畳はすでに裏返され、 白木綿が敷き詰められている。
ごていねいなことに、 敷布の下には油紙まで挟みこまれていた。
いったいどこで手配したものか、 浅黄色の肩衣までが揃えられており、 妻子の手でたちまち死装束に着替えさせられる。
「遺書を書きおえられましたら、 それなる茶漬と御酒を一合、 お召し上がり下されませ」
「ほう。 何から何まで手回しのよいことだな」
「腹がすぼんでおると、 切先が通りにくいと申します。 それに、 御酒を召し上がりますれば血の出がよろしいと―」
それぞれの物語の導入に浅田氏の語りが入り、 現代人の生き方につなげて幕末の時代に物語が移って行くという手法が取られている。
短編中の1作 「大手三之御門御与力様失踪事件之顛末」。
大手門を護衛する門番が勤務中にもかかわらず、忽然と消えてしまった。
この物語のまくらに、 夜更けの酒場で携帯電話の脅威について浅田氏が友人たちと論じ合っている場面が出てくる。
携帯電話は驚異の発明ではなく、 脅威である。 プライバシーの自由と安全を保障する利器でありながら、 同時に個人の自由と安全をあやうくするという二面性を持っている。 つまるところ伸縮自在の首縄の端を、 家庭と会社に握られているようなもので、 この姿はどう見ても人間的ではない。
大の男がどこで何をしていようが勝手だろう。 いっそ電源を切って、 しばらく神隠しに遭うというのはどうだ。
神隠し―不在の自由を失ってしまったわれわれにとって、 何とも魅惑的な言葉である。
・・と語って物語に入る。 うん、いい感じ。
立身出世のために、 若い頃心底惚れあった女を捨ててしまった。 その女が女郎に身を落とし、いま死の床にあるという。
男なら男としての務めを果たさねばならぬ。 惚れた女を捨てた罪の上に、 男としてのほこりまで捨てる罪を重ねてはならぬ。 しかし、どうすれば妻子や周りのものに怪しまれずに何日も家を空け女のそばに居てやり、 帰ったのちも咎められることなく済ませられるだろうか。
考えた末の 「天狗の神隠し」。
新しい作家のものを、 うーん、 この人と私は相性はどうかなあと思いながら読んでいくのも楽しい(たまに辛い)作業ですが、 浅田さんは、確実に充実した物語世界に連れて行ってくれる安心感があるから、 気がラクです。
2006年04月10日
4月10日物語 : 愛なんかいらねーはいらない
前回、絲山秋子の 逃亡くそたわけ を読んで、 その勢いでニート も読んだ。
ニートについて、もう少し知りたかったし。
ニート 絲山 秋子 角川書店 2005.10ニート(NEET) = Not in Employment, Education or Training
・・・ 職に就いていず学校機関に所属していず、そして就労に向けた具体的な動きもしていない15歳〜34歳の未婚者を言うらしい。 ついでに「家事もしない」 も含んでいるらしい。
34歳というのはどこから来ているのだろう? 35歳を過ぎれば同じ状況でもニートとは言わないの? などとそういうところが気になるわたし。
これ、面白いよ! と 逃亡くそたわけ を子どもたちに勧めたが、 ニートは読後あわてて引っ込めた。
別にニートになってもらいたくないからではなくて (なってもらいたくない。 今のところその素質はないということはわかる)、 最後に収められた 愛なんかいらねー が、ひどい話だったからだ。 文学的にどうの、ではなくて、 性的表現に不適切なもの・・いや、表現ではなく、 なんと言ったらよいのか、つまり、 スカトロ変態セックスの行為が具体的にながながと出てきて、 読んでいて気分が悪くなってしまった。
肝心のニートという話とその続編である2+1 と、 ベル・エポック、 へたれ については、 人間関係の希薄さとエゴが云々・・と感想を書こうと思ったが、 ラストの愛なんかいらねー のショックで、 どうまとめていいのかやら、その手前までの短編の読後感がすっ飛んでしまった。
どこかでうっかり手に取ってしまったら後の祭りで仕方ないけれど、とてもとても中学生には読んでもらいたくないわ―。
ニートの抱える問題、 社会が抱えるニートの問題の何がわかるというニート解読の本ではないことは確かです。
小説家のプライベートと書く世界を安直に結びつけたくはないけれど、 絲山秋子さんが 便器のフォルムが好きで、 住宅設備機器メーカーを就職先に選んだほどの 「便器オタ」 とはどこかで読んでいたので、しっかり結びついてしまいました。
愛なんかいらねー は、 そのネタじゃなくても書きたいことを表す方法は他になかったのか・・と疑問に思いましたが、絲山さんの小説はどこがどう良いのか説明しにくいけれど気になってまた読んでしまいそうです。
でももうあのネタはいりません。
2006年04月09日
4月8日物語 : 逃げろ!
タイトルと題字と装画がこの物語のスピード感をあらわしている。
逃亡くそたわけ 絲山 秋子 中央公論新社
一度読み出したら最後まで止まらないノンストップロードムービー観光小説とでもいうのか・・。
「亜麻布(あまぬの)二十エレは上衣(じょうい)一着に値する」
その言葉がまた聞こえてくる。
幻聴に悩まされる躁の花ちゃんは精神病院を脱走することに決めた。
テトロピンという強い薬を飲まされ続けたら廃人になってしまう。
最初はひとりで逃げるつもりだったが、 中庭の隅で悲しそうな顔で野良猫と遊んでいる鬱の茶髪のサラリーマン、なごやんを見て 「一緒に逃げよう」 と誘ってしまう。
強引な躁の花ちゃんと、弱気な鬱のなごやんの逃避行だ。
なごやんのアパートに寄り、 おんぼろ車となごやんが溜め込んでいた薬をかき集めて逃亡は始まる。
バリバリの福岡弁の花ちゃんと、頑なに標準語で通す名古屋出身のなごやんの会話がおかしい。 なにから逃げているのか、 どこへ向かっているのか、 本当に逃げなくてはならないのなら九州の名所を観光したり名物を食べたりしていないで、 本州に逃げればいいのに、 福岡から大分、熊本、宮崎と通って鹿児島へと車を走らせる。
ふたりは途中、けんかしたり、はしゃいだりしながら、花ちゃんは無免許で運転をするわ、 畑の野菜を盗むわ、 人の高級車にぶつけて逃げるわ、 食い逃げはするわ、 万引きはするわで、 逃げる材料をどんどん増やしていきながら逃げていく。
女子大生の花ちゃんと24歳のサラリーマンのなごやんは何日もいっしょに逃げ、車中泊したり、温泉旅館に泊まったりするのに、ついに男と女の関係にはならなかった。
「セックス・シーンもなく登場人物は誰一人死なない」小説を書きたいと風の歌を聴け(村上春樹)に出てくる「鼠」 は言ったが、 まさにこれはそうだった。
やたらと人を死なせたり、男女のムツゴトを書かなくても、ちゃんと読ませる小説になるじゃない! と嬉しくなった。
ふたりのやりとりがおかしくて笑ってしまうシーンが多いのだが、 躁や鬱の苦しみが出ていたり、 もうすぐこの逃避行も終わりに近づいているとふたりが感じてくる最後のあたり、 涙腺を刺激され、寂しい気持ちになりました。
詳しいことは書けないけれど、 なごやんて本当は病院から逃げる必要はなかったの。
だけれども、 「逃亡」 はふたりにとって意義あることでした。
2006年04月07日
4月6日物語 : 本名 石平(いしだいら)さん
何冊か読んで、 「石田衣良って、 ずいぶんとあたたかでやさしい人だな」 と感じていた。 生まれつき繊細で人一倍傷つきやすい子供でもあったのだろうと。 石田さんの書くストーリーからはいつもやさしさがにじみ出ている。
半月ほど前だったか、 NHKの番組 「課外授業 〜ようこそ先輩」 に石田衣良が出ていた。 これは、各方面で現在活躍されている方が、自分の卒業した小学校に行き、授業をするという企画の番組だ。 だいたいが自分の専門分野で、音楽家なら音楽、体操の選手なら体操を、 枠にはまらない自分なりのやり方で授業を持つ。
石田衣良は作家だから作文指導かな、と思ったが、 ちょっと違った。
「書く」 ことは 「書く」 が、 「何をどう書くか」 という技術ではなく、 「書く」 ことによって自分の考えている事を整理し、内面を引き出すといったことをやってのけた。 そういうことをやってやろう、などと尊大な気持ちではなかっただろうと思います。
6年生の教室に来たばかりの時は、 石田さんも子供たちも緊張して 話がなかなか進まず、 ぎこちなくて 「あ〜なんて不器用な人なんだろう」 と見ていてはらはらしてしまい、 そしてその不器用な石田さんにとても好感を持った。
「将来、何になりたいか」 というぱっとしない(ぱっとしない、と私は思ってしまった)質問から始まり、 「なりたいものがない」 「言ったら笑われそう」 などと、 うじうじ答えない子供たちに、いちいち 「う〜ん」 と考え込みながら、 ではどうして なりたいものがないのか、言ったら笑われそうと思うのか、 辛抱強く聞いていく。
何回か書く作業をやらせているうちに、 子供たちが自分のこころの中を整理していく様子がわかった。 ちなみに授業は1日ではなく5日間ほど行なわれたようだ。
彼らの書いた箇条書きのような文章を休み時間に一枚一枚丁寧に読み、 一人ずつ呼んで個人面談をしていく。
「小さい子や弱い人にやさしくしたい」 と書いた男の子がいた。 「どうしてそう思ったの?」 「う〜ん、 僕、昔、いじめられたから」 「だから弱い立場の人にやさしくしたいと思ったの?」 「いじめられるのは、 辛いから」 「いじめられる人の気持ちがわかるんだね」 と言った直後に石田さんが指で自分のおでこをとんとんとんと叩いた。
とんとんとん。 石田さんは涙が溢れるのを堪えるためにそうしていた。
立ち上がり、隅に行き、 目頭を押さえた。
約束 石田 衣良著 2004.7
約束 という小説は、 石田衣良が 池田小学校の事件をテレビニュースで見て、 悲しくて腹が立ってたまらず、 生き残った子どもたちにエールを送り、 なくなった子どもたちの魂を鎮めるために、 自分になにかできないかと真剣に考えたことがきっかけとなって書いたものだそうです。
ここに収められた7つの連作短編は、 大切なものを失い、傷つき喪失感を抱えた人達(主に子どもたち)が、 光りを見つけ再生していく物語です。
作者であるくせに、石田さんは最初の一行を書いた瞬間に涙を落としてしまったそうです。 小説家らしくないです。 でもそうゆうところが石田さんの魅力なんだなあ。
先ほどの男の子は授業最終日に 「僕は将来、保育士になりたい」 と 大きな声で発表していました。 自分の夢が見つかったようですね。
半月ほど前だったか、 NHKの番組 「課外授業 〜ようこそ先輩」 に石田衣良が出ていた。 これは、各方面で現在活躍されている方が、自分の卒業した小学校に行き、授業をするという企画の番組だ。 だいたいが自分の専門分野で、音楽家なら音楽、体操の選手なら体操を、 枠にはまらない自分なりのやり方で授業を持つ。
石田衣良は作家だから作文指導かな、と思ったが、 ちょっと違った。
「書く」 ことは 「書く」 が、 「何をどう書くか」 という技術ではなく、 「書く」 ことによって自分の考えている事を整理し、内面を引き出すといったことをやってのけた。 そういうことをやってやろう、などと尊大な気持ちではなかっただろうと思います。
6年生の教室に来たばかりの時は、 石田さんも子供たちも緊張して 話がなかなか進まず、 ぎこちなくて 「あ〜なんて不器用な人なんだろう」 と見ていてはらはらしてしまい、 そしてその不器用な石田さんにとても好感を持った。
「将来、何になりたいか」 というぱっとしない(ぱっとしない、と私は思ってしまった)質問から始まり、 「なりたいものがない」 「言ったら笑われそう」 などと、 うじうじ答えない子供たちに、いちいち 「う〜ん」 と考え込みながら、 ではどうして なりたいものがないのか、言ったら笑われそうと思うのか、 辛抱強く聞いていく。
何回か書く作業をやらせているうちに、 子供たちが自分のこころの中を整理していく様子がわかった。 ちなみに授業は1日ではなく5日間ほど行なわれたようだ。
彼らの書いた箇条書きのような文章を休み時間に一枚一枚丁寧に読み、 一人ずつ呼んで個人面談をしていく。
「小さい子や弱い人にやさしくしたい」 と書いた男の子がいた。 「どうしてそう思ったの?」 「う〜ん、 僕、昔、いじめられたから」 「だから弱い立場の人にやさしくしたいと思ったの?」 「いじめられるのは、 辛いから」 「いじめられる人の気持ちがわかるんだね」 と言った直後に石田さんが指で自分のおでこをとんとんとんと叩いた。
とんとんとん。 石田さんは涙が溢れるのを堪えるためにそうしていた。
立ち上がり、隅に行き、 目頭を押さえた。
約束 石田 衣良著 2004.7約束 という小説は、 石田衣良が 池田小学校の事件をテレビニュースで見て、 悲しくて腹が立ってたまらず、 生き残った子どもたちにエールを送り、 なくなった子どもたちの魂を鎮めるために、 自分になにかできないかと真剣に考えたことがきっかけとなって書いたものだそうです。
ここに収められた7つの連作短編は、 大切なものを失い、傷つき喪失感を抱えた人達(主に子どもたち)が、 光りを見つけ再生していく物語です。
作者であるくせに、石田さんは最初の一行を書いた瞬間に涙を落としてしまったそうです。 小説家らしくないです。 でもそうゆうところが石田さんの魅力なんだなあ。
先ほどの男の子は授業最終日に 「僕は将来、保育士になりたい」 と 大きな声で発表していました。 自分の夢が見つかったようですね。
2006年04月05日
4月5日物語 : 神様降臨?
昨夜たまたま見たテレビ番組で、 細木数子が「ニート50人に活を入れる」 みたいなことをやっていた。
ニートにも色々種類があるようで、 ひきこもり型とか一度は就職したけれど嫌になって辞めてからやる気がでなくなった型とか、 就職しようとしてみたが怖気づいて一度も働けない人とか、 とにかくめんどーだるい、働くなんてあほらしい型とか、 それぞれそうなった理由を抱えていそうだ。
不思議なのは生活費はどうしているの? というところ。 番組のゲストも司会者も、細木さんも不思議がっていて私も不思議に思った。
人にもらったものをネットオークションにかけて生活費を稼いでいると得意そうに語っていた人は、 文句を言う家族と顔を合わせたくないから自室でひとりコンビニのお弁当を食べているそうだ。 家はそこに人が住んでいるだけで固定資産税やら水道光熱費やら修繕費やらかかるんだけどねえ。
パチンコで月20万稼ぐ人もいた。 親に生活費を出してもらっている人もいた。
驚いたのは、 ある十代後半の女の子で、 毎日知らない人にごはんをご馳走してもらっている、と言うのだ。 ネットで 「神様募集」 すると、 毎日いくらでも神様(見知らぬ男の人)からの返信があって、 会ってご飯を食べさせてもらっていると言う。
返信が来ると 「神様降臨!」 と笑って言って出かけていく。
ご飯だけで、 その先はない、そうだ。 かわいい女の子だった。
細木さんは、 「男を騙してそんな生活を送っていたらロクな将来が待ってない!」 と憤慨していたが、 ん〜、 騙してはいないと思う。
お腹を空かせたかわいい女の子が居て、 食べさせたい(一緒に食事をしたい)男の人が居て、 お互い喜んでいるのだし。
と言ったら、 子供たちに怒られた。 それじゃあ、売春もお互いに利があれば良いということになるじゃないか。
「良い」とは言ってない、 「騙してはいない」 と言っただけだ。
おんなじような魂のレベルのひとたちがおんなじ世界の中でなぐさめあっている、 そんなふうに思ったのだ。
その女の子は最後には言っていた。 「こんな生活、辞めなきゃと思っている」と。 「良い」とは思っていなかったようだ。
細木さんは 「こっち(の世界)にいらっしゃい。 今なら間に合うよ。」 と言った。
細木数子 が 大道珠貴 の しょっぱいドライブ を 読んだらさぞ憤慨するだろうな、と思った。
大道珠貴 の小説の中には、 理想を高く持って、明日に向かって一生懸命生きる、戦う、 のような人は滅多に出てこない。 今まで読んだ中では皆無だった気がする。
出来る事なら一生働かずしてどうにかして日々が過ぎていけばいい、 ああ、面倒、面倒、 何をするのも面倒、といった空気が蔓延していて、 でも性欲やら異性への興味は多少あるから、 たまに好きでもない人とふらふらっとセックスして、なんかセックスなんてどこがいいんだかわかんな〜い、と言いながらも断るのも面倒だからまたやっちゃう、みたいな雰囲気。
あくまでも雰囲気を言っています。 ストーリー解説ではなくて。
しょっぱいドライブ 大道 珠貴 文芸春秋
第128回芥川賞受賞作品です。
「しょっぱいドライブ」の主人公、 35,6歳の 「わたし」のボーイフレンドは、60代か70代の九十九さん(恥ずかしがって教えてくれないのだが、 60でも70でもどうでもいいじゃないか、と「わたし」は思う)。
主人公は親子代々、人の好い九十九さんに、返す当てもなく金を借り続けているのだった。 「鴨がネギをしょってやってくらあ」 などとバカにしている。 そんな九十九さんとなんとなく付き合っている「わたし」は、九十九さんの肉体の老いをつぶさに観察する。 髪も薄いし、 老人臭もする。 でもまったく「わたし」 は気にしてない様子だ。 九十九さんの臭いはバニラエッセンスの香りに感じるそうだ。 皮膚もかさかさだし老人斑もある。 胸も脇腹も下腹も、 どこもかしこも筋肉がなく、七面鳥みたいにたるんでいる。 特別好きでもないけど嫌いじゃないし、まあいいじゃないか。
そんな九十九さんとちょっと試しにいっしょに暮らしてみようかと言う話になった。 ごはんも作らなくてもいいし、なんにもしなくていいというし、 どうしようか。 と思っているうちに九十九さんが家を借りてきた。 性交ができるのかできないのかわからないけれど、きっともう子種はないだろう。 それは「わたし」にも楽だ。
九十九さんは朝、ぐずぐず眠っていられなくて起きだして家事をしだすが、 「わたし」は、 起きたくない。 九十九さんも起こしに来ない。
やっていけるかもしれない、 いけないかもしれない、 やってみなければわからない、 そんなふうに寝床のなかでうすら笑いをしながら思っている。
「男を騙してる!」 と、細木数子なら言いそうだ。
騙してるのではないですよ。
ニートにも色々種類があるようで、 ひきこもり型とか一度は就職したけれど嫌になって辞めてからやる気がでなくなった型とか、 就職しようとしてみたが怖気づいて一度も働けない人とか、 とにかくめんどーだるい、働くなんてあほらしい型とか、 それぞれそうなった理由を抱えていそうだ。
不思議なのは生活費はどうしているの? というところ。 番組のゲストも司会者も、細木さんも不思議がっていて私も不思議に思った。
人にもらったものをネットオークションにかけて生活費を稼いでいると得意そうに語っていた人は、 文句を言う家族と顔を合わせたくないから自室でひとりコンビニのお弁当を食べているそうだ。 家はそこに人が住んでいるだけで固定資産税やら水道光熱費やら修繕費やらかかるんだけどねえ。
パチンコで月20万稼ぐ人もいた。 親に生活費を出してもらっている人もいた。
驚いたのは、 ある十代後半の女の子で、 毎日知らない人にごはんをご馳走してもらっている、と言うのだ。 ネットで 「神様募集」 すると、 毎日いくらでも神様(見知らぬ男の人)からの返信があって、 会ってご飯を食べさせてもらっていると言う。
返信が来ると 「神様降臨!」 と笑って言って出かけていく。
ご飯だけで、 その先はない、そうだ。 かわいい女の子だった。
細木さんは、 「男を騙してそんな生活を送っていたらロクな将来が待ってない!」 と憤慨していたが、 ん〜、 騙してはいないと思う。
お腹を空かせたかわいい女の子が居て、 食べさせたい(一緒に食事をしたい)男の人が居て、 お互い喜んでいるのだし。
と言ったら、 子供たちに怒られた。 それじゃあ、売春もお互いに利があれば良いということになるじゃないか。
「良い」とは言ってない、 「騙してはいない」 と言っただけだ。
おんなじような魂のレベルのひとたちがおんなじ世界の中でなぐさめあっている、 そんなふうに思ったのだ。
その女の子は最後には言っていた。 「こんな生活、辞めなきゃと思っている」と。 「良い」とは思っていなかったようだ。
細木さんは 「こっち(の世界)にいらっしゃい。 今なら間に合うよ。」 と言った。
細木数子 が 大道珠貴 の しょっぱいドライブ を 読んだらさぞ憤慨するだろうな、と思った。
大道珠貴 の小説の中には、 理想を高く持って、明日に向かって一生懸命生きる、戦う、 のような人は滅多に出てこない。 今まで読んだ中では皆無だった気がする。
出来る事なら一生働かずしてどうにかして日々が過ぎていけばいい、 ああ、面倒、面倒、 何をするのも面倒、といった空気が蔓延していて、 でも性欲やら異性への興味は多少あるから、 たまに好きでもない人とふらふらっとセックスして、なんかセックスなんてどこがいいんだかわかんな〜い、と言いながらも断るのも面倒だからまたやっちゃう、みたいな雰囲気。
あくまでも雰囲気を言っています。 ストーリー解説ではなくて。
しょっぱいドライブ 大道 珠貴 文芸春秋 第128回芥川賞受賞作品です。
「しょっぱいドライブ」の主人公、 35,6歳の 「わたし」のボーイフレンドは、60代か70代の九十九さん(恥ずかしがって教えてくれないのだが、 60でも70でもどうでもいいじゃないか、と「わたし」は思う)。
主人公は親子代々、人の好い九十九さんに、返す当てもなく金を借り続けているのだった。 「鴨がネギをしょってやってくらあ」 などとバカにしている。 そんな九十九さんとなんとなく付き合っている「わたし」は、九十九さんの肉体の老いをつぶさに観察する。 髪も薄いし、 老人臭もする。 でもまったく「わたし」 は気にしてない様子だ。 九十九さんの臭いはバニラエッセンスの香りに感じるそうだ。 皮膚もかさかさだし老人斑もある。 胸も脇腹も下腹も、 どこもかしこも筋肉がなく、七面鳥みたいにたるんでいる。 特別好きでもないけど嫌いじゃないし、まあいいじゃないか。
そんな九十九さんとちょっと試しにいっしょに暮らしてみようかと言う話になった。 ごはんも作らなくてもいいし、なんにもしなくていいというし、 どうしようか。 と思っているうちに九十九さんが家を借りてきた。 性交ができるのかできないのかわからないけれど、きっともう子種はないだろう。 それは「わたし」にも楽だ。
九十九さんは朝、ぐずぐず眠っていられなくて起きだして家事をしだすが、 「わたし」は、 起きたくない。 九十九さんも起こしに来ない。
やっていけるかもしれない、 いけないかもしれない、 やってみなければわからない、 そんなふうに寝床のなかでうすら笑いをしながら思っている。
「男を騙してる!」 と、細木数子なら言いそうだ。
騙してるのではないですよ。
2006年04月03日
4月3日物語 : 此処彼処
ドアをあけるとうすもも色の花びらが舞い散っていて、霞んだ景色の向こうに見える桜の大木に目をやった。
まだあんなにふっくらとたたえているのに終わりの時を迎えているのだろう、 風が花びらを引き剥がすのを手伝い、 散った花びらを舞い上げてゆく。
くるくるとさらさらと流れてゆく。
あの木だけではない、近くの公園の桜の花びらも混ざって舞っているのだろう。
花霞み・・そんな言葉が浮かんだが、 桜の森のそばにいるわけではなく、 霞んで見えたのは風が舞い上げる土けむりのせいだった。
風の強い日は苦手だ。 乾いた土が舞い上がり洗濯物にも小さな土の粒がついてしまう。 ここらで少し雨でも降って土をおさえてくれればいいのに。
桜の季節は、雨と風にはらはらさせられる。
たっぷりと咲き誇った翌日に雨が降ろうものなら、道路や走る車の体に桜の花びらの死骸がはりついて、 最初はそれもしっとりと濡れて美しかったのだが、 あっという間に茶色くくすんで目をそむけたくなる。
踏みたくないのに其処彼処の道にはりついて避けて歩くことも出来ず、自分が非情な人間になったみたいで気分が重い。
雨が降ればいいのにと思ったり、 雨に花びらが叩かれるのに心痛めたり。
こんなふうに人々に待たれ、楽しまれ、惜しまれ、 歌にうたわれする桜は、 はかなげはかなげと言われながらも、 力強い緑をしっかり準備してなんのなかなか実はたくましいということをあと半月もすれば思うのだが。
昨日つまらないものを読んでしまって気持ちがくしゃくしゃとして何か小説らしい小説を読みたいと、どれを手に取ろうかと考えた。
今日は裏切られたくないし、 お説教を垂られるのも、 びっくりさせられるのも、 大いに泣かされるのも、 げらげら笑わされるのも、 人生について深く深く考えさせられるのも億劫な気分なので、 慣れ親しんだ作家のものが良い。 再読が一番安心なのだけれども。
風が強くて埃っぽくて妙に生暖かくて、桜が舞い散っているのを見たいけれど外には一歩も出たくないそんな日に、ほうじ茶を飲みながらゆるゆると。
此処彼処 川上弘美ゆるゆると。 そう思ったとたん、 川上弘美を読みたいと思った。
体力も気力もないようなだらしない気分の私を責めないでいてくれるのは、 川上弘美 か 村上春樹 くらいしか今思いつかなくて。
それもエッセイ。 彼らのエッセイのなかに流れる時間の ”ゆるさ” が私を甘やかしてくれます。 エッセイはどの作家のものでもなるべく避けたいと思っていたのに、 川上弘美、 村上春樹の引力には負けてしまう私。
此処彼処 は、 イメージが固定されてしまうような気がしてこれまで場所についての言及を避けていた川上さんが、 はじめて場所のことを書いてみようと思い書いたものだと、あとがきにありました。
「この世界の此処彼処(ここかしこ)に、 自分に属すると決めたこういう場所がある。 固定資産税もかからないかわりに、 知らぬ間に消えていたり変貌を遂げていたりもする。 昨日見つけたばかりのところもあれば、 長く見知っているところもある。 そんな場所について、 書いてゆこうと思う。」
川上さんが大切に思う場所、 忘れられない場所、 一度だけ通りかかった場所、 ちょっと立ち寄った場所。
そんな此処彼処の場所を、 「繁華街」 だの、 「日本海のみえる土地」 だの、 「町はずれ」 などのように曖昧な表現ではなく 「浅草」 「京橋」 「駒場」 「オレゴン」 「吉祥寺」 「南長崎」 「北海道」 「高井戸」 など具体的な場所をあげて、 そこを訪れたり住んだり思い出される季節に分けて書いてある。 1月から12月までの項に分けてあり、 私は3月と4月を先に読み、 それから親しんだことのある地名のところを読み、 もう一度最初から最後まで読んだ。
川上さんも怒ったりイライラしたり車を飛ばしたりしているのだが、 どうしてどれもゆるゆるとやわらかなお話になるのだろう。 ひらがなが多いから、だけではなく、 人柄なのかなあ。
此処彼処の場所の名が書いてあるのに、 川上さんが書くと何処か架空の場所のような気がしてしまうのが不思議だった。
2006年04月02日
4月2日物語 : 淡白です
タンゴが響きわたる20世紀初頭のブエノスアイレスから、神戸、東京、そして満州へ―。 日本人移民としてアルゼンチンに育ち、女優として大輪の花を咲かせたツキコの波乱の半生を描く大河小説。
父の突然の死、 ただ一人残された肉親、 弟の眞一郎との強い絆、 幾多の激しい恋、 演劇との出会いと心血を注いで作り上げたみずからの舞台・・・。
すみません、 どこかに書いてあった書籍紹介レビューまんまです。
角川書店ツキコの月というタイトルが気になっていつかは読んでみようかなとは思っていましたが、 伊集院静が舞台用に書き下ろしたものだとは聞いていたので、 どんなストーリーかな? と思うくらいで最初から小説としては期待していなかったのです。
やっぱり苦手ですね、お芝居用、映画用に書き下ろしたものは。
文章としての味がないんだもの。
視覚や聴覚があってこそ生きるように書かれているから。
やはり私は純粋に小説、文学が好きです。
文字だけの情報を脳に送り込んで自分で好きなように解釈して、視覚化、音声化して楽しみたい。
舞台では2005年秋に 「ツキコの月 そして、タンゴ」 という題で、森光子・東山紀之の噂のコンビ(?)で演じられたらしいですね。
たぶん85,6歳になるだろう森光子が17歳の役でタンゴを踊るそうです。
すごい! 私もスクワットでもしようかしら。
今日は淡白です。
あ〜、小説読みたい!
2006年04月01日
4月1日物語 : 桜
夕食時に嬉々として箸を運ぶ子供たちを見ながらぷふふっと笑ってしまって子供たちに気味悪がられた。
「なによ、お母さん」 「気持ち悪いな、どうしたの」
ここ数日体調が悪く、 満足のいくものを出せなくて鬱々としていたのだけれど、 今日の昼に、 キャベツとベーコンのスパゲッテイ、 春雨のスープ、 水菜とトマトとツナのサラダを用意して、 君たちがとても喜んでくれて、 お母さんは茶碗を洗いながら、 さあて夜は何を作ろう、 そうだ、 昨日読んだ 岩阪恵子 の 掘るひと にも出てきた鯛のアラとごぼうの煮付けを作ろう、 それからそうね、 ハマグリのお吸い物も欲しいな、 菜の花のお浸しもいいわね、 なんだか春らしいものをたくさん作りたくなった、 春ね、春だもの、 そうだ買い物に行く時に近くのキリスト教大学の桜も見てこう、 きっと今日は見ごろ、 桜餅もデザートに買ってこようかしら、 それとも苺とヨーグルトにしようかしら、 そんなふうに思って、 こうやって夕食が出来て、 君たちも美味しい美味しいと食べてくれる、 そんな顔を見ていたら、 ああ、私ひとりだったらこんなに料理なんかしなかったわね、 美味しい美味しいと食べてくれる人がいるからこそなのよね。 ああ、 「ありがとう、 生まれてきてくれて」 と思わず言いそうになって、 そんなこと今いきなり言ったら、 「なんだよ、 いきなり、 変なお母さん」 とか 「お母さん、 やっぱり変なひと」 とか言われちゃうだろうな・・・と、考えていたら、 ぷふふっと笑ってしまったのよ。
と、話したら、結局 「やっぱりお母さん、 変なひと」 と言われてしまった・・。
岩阪恵子 の 掘るひと の中の9つの短編は、 台所や料理をすること、 食べること、 食べ物などに少しずつ関連するような物語ばかりで、 岩阪恵子さんも茶碗を洗い、 里芋の泥をたわしでこそげ、 ネギを刻みながらこれらの物語を構築していったのかもしれないなと思った。
掘るひと 岩阪 恵子 講談社・掘るひと
・マーマレード作り
・タマゴヤキ
・雨通夜
・ねこめし
・母のほうへ
・包丁とぎます
・指輪
・流しの穴
表題作の 掘るひとの話では、 庭にせっせと穴を掘る主婦が出てくる。 幅50センチ深さ1メートルほどの。
主婦は普段義母と二人と暮らしていて、単身赴任の夫が一ヶ月に一度ほど帰ってくると、義母は下にも置かないもてなしぶりで、彼が返事をする気もなくほどまとわりついては話かけるのだ。 夫は妻に、「普段おふくろと話をしてやっているのかい?」 と聞いてきたり、 「自分の母親を女房に押しつけておればかりが気ままにしている・・・・そう思ってるんだろう? 思うなら勝手に思えばいいさ」 などと言う。
主婦があの穴に義母を埋めちゃう話になるのかと思ってしまったが (こういうのを 「本の読みすぎ」 と言うのかも)、 そうではなく、ただ生ゴミを処理する為に掘っているだけなのだが、 自分では変えようのない現実をただ受け入れ、 不満や不平などを生ゴミと一緒に深い穴の中に埋めていると言う事なのだろう。
献立を考え、 食材を買い、 洗い、刻み、煮、焼き、炊き、 後片付けをし・・を10年も20年も30年も毎日くり返してきた中年や老年に差し掛かる女たちの、 こうやってこのまま、 夫や義母の世話をしたり子供を育て上げたり、 嫌な親戚と付き合ったり、 愛想のない隣の人と会釈をしながら、 一生なんて終わっていくのだなという、 諦めにも似た寂しく重い空気とドブのような臭いがふつふつと排水溝から登ってくるようなお話たちでした。
岩阪恵子さんは、 もとは(今もかもしれない) 詩人だそうです。 これらの作品も、 日常の、うしろうしろへと流れて忘れてしまうような小さな出来事を詩人の目で切り取り、 くっきりと生々しく静かに差し出してくれます。 静かな文章だけに、 無口な人が実はたくさんの灰色の思いを抱えていることに気付かされたときのような小さな怖さを感じました。
主婦ね。 まあ、 そんなもんかもしれないけれど、 私はもう少し人生を面白く受け取りながら、 積極的に楽しんでいきたいな。
4月1日物語 : まさかね
こんにちは。
前回の記事のタイトルに “休憩” とつけたのが祟ったのか、体調を崩して本当に休憩してしまいました。
4月になってしまいました。 1日ということで、ちょっと悪意のないほら話を書こうかとも思っていましたが、まじめにいきます。
数日前に “悪意のある”メールに翻弄されて疲れてしまいました。
友人がこんなメールを親しい友人からもらいました。
突然ですが、犬飼えそうな人いないかしら?
◎小犬(1歳未満)
ビーグル×8匹 アメリカン・コッカー・スパニエル×6匹
ヨークシャテリア×3匹 ミニチュア・シュナウザー×4匹
シーズー×14匹 シェトランド・シープドック×14匹
コーギー×11匹
ペットショップが潰れたらしく今月中(3月)に飼い主が
見つからないと処分されちゃうんだって! ちなみに無料。
飼えなくても探してくれたら嬉しいです。
こんなメールを親しい友人から3月29日にもらった私の友人は、 「きゃあ、あと2日しかないじゃない!」 と慌てました。
♂♀の区別は書いてないし、どこに取りにいけば良いのかわからないけれど、 とにかくこの話を聞いて、一匹くらいなら引き取ってもいいと言う人が見つかってから詳しい事を聞けば良い。 まずは期限が目の前にせまっているのだから、少しでも早く多くの人にこのメールを流そう。
と、10人程の親しい人に同じ文面を送りました。
受け取った人達も、ほとんど同じ心理で親しい人達にメールをばら撒きました。
私のところにも来ました。 私も、はい、数人にメールしました。
実際、飼います! という人が何人もあちこちで現われて、 自分にメールをくれた人に、 「いつ、どこにどうやって取りに行けば良いのか? ♂♀を知りたい、せめてわんちゃんの顔を見てから選びたい」 とメールを返します。
みんな、この話の出所は自分にメールをくれた友人その人であり、 その潰れたペットショップは友人のそう遠くはない知り合いなのだと思い込んでしまってます。
そしてメールはずんずんと遡って行きますが・・・。
悪質なチェーンメールだったようですね。
「ごめんなさい、 悪質なチェーンメールだったようです。 お騒がせしてしまい本当に申し訳ない」 とのメールがまた飛び交いました。
「気にしないで、 そんな不幸なわんちゃんの話が、嘘であって良かったわ」 という感じのメールがさらに飛び交います。
このメールのミソは、
・期限があと2日と迫っていて慌ててしまうこと
・親しい友人から親しい人へと送ってしまうこと
です。
いったいどこが始まりなのか。 愉快犯と同じ心理なんでしょうが、どこがどう愉快なのか? 自分の投げた小石が水上に輪を広げ、いつしか津波のようになっていくのが面白いのでしょうか。
得したのは年度末にパケット通信料がふくらんだ各携帯通信の会社くらいなもんで、え・・
・・・まさかねえ。
読んだ本についての記事を書くつもりが違う話になってしまいました。
夜また書こうかと思ってます。 の、予定です。
書きたいけれど。 時間が取れますように!

