2006年03月29日

3月29日物語 : 休憩


リンク先お友達のMOWさんやkbbさんも遊んでいておもしろそうだったので、私もやってみました。
こういうの、すぐやってみてしまいます。

精神年齢鑑定 っていうの。 ←遊んでみたい方はどうぞ。

結果

あなたの精神年齢は26歳です
あなたの精神年齢は、おとなになりたてです。 若々しさがあり、 時にはこどもっぽくなることもありますが、 世間一般に認められる程の常識を持ち合わせています。 ただ、大人の年季というものは微塵も感じ取れません。

実際の年齢との差 −○○歳 (内緒です)
あなたは実際の年齢よりかなり幼稚です。 これは 『若い』のではありません。
『幼稚』なのです。 もっと大人になる努力をしないと、これから先苦労しますよ。

幼稚度44%
あなたは小学校中学年並みの幼稚さを持っています。 がんばって一人でなんでもできるようになりましょう。

大人度50%
あなたはなかなかの大人です。 冷静さもあり、精神的にも発達してきています。

ご老人度25%
あなたからは少し 『おじいちゃんっ気』 が感じられます。 このままでは確実におじいちゃん色に染まってゆくでしょう。

あなたとお友達になれそうな人
木村拓哉
サザエさん
キン肉マン


遊びよ遊び、こんなもの、ふーんだと口にしてみてもぎくりとかしてます。
幼稚度と大人度がともに高かったりするのは一見矛盾しているようですが、 「幼さも持ち合わせてしかも大人っぽい一面もある」 と解釈するようです。 大人っぽいとかいわれてもねえ、 実年齢はしっかり大人なんですから。

12歳の娘と14歳の息子もやってみましたが、 彼らのほうがはるかに精神年齢が高かったです。 へへっ。
あ〜、これが 「肉体年齢」 や 「脳年齢」 だったらどんなに嬉しかったか・・。

「がんばって一人でなんでもできるように」 なれなくたっていいもんっ。

  
posted by tsukikohime at 15:30| Comment(6) | TrackBack(0) | ん・・こぼれごと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年03月28日

3月28日物語 : 女神か魔性の女か


16歳で直木三十五に抱かれ、 菊池寛、 小林秀雄、 坂口安吾、 川上徹太郎、 大岡昇平、 中原中也、そして青山次郎・・、文壇の男たちに求められ、次から次へと男たちに奪われ続けたムウちゃん。

婚約しては逃げ、 駆け落ちしては駆け落ち先からひとり逃げ帰り、 誘われれば断わらず、 結局は誰のものにもならなくて、 44歳で自死を選んだムウちゃん。

たくさんの男たちに求められるままに体や時間を与え続けても、ムウちゃんには男の身勝手さを確認することにしかならなかったのだろう。 彼らはムウちゃんを欲しがったけれど、ムウちゃんの欲しいものは誰も与えてくれないし、持っていない。 そもそもムウちゃん自身、何が欲しいのかわかっていなかったのだろう。
相手が変わっても、何度確認しても。
だから、もうムウちゃんという女を誰にも攫われないよう、永遠に身を隠したのか。

「ムウちゃんはかかわりのある男や、あった男について話題にすることは一切なかったという。 それは私生活的な話を避けたというよりは、 そもそも彼らに深い関心を持っていなかったように感じられる。」

青山二郎、小林秀雄や永井龍男や、坂口安吾、大岡昇平などの文豪と呼ばれる作家たちがその作品に別名でムウちゃんを登場させているそうだが、真実のムウちゃんに一番近い姿を捉えていたのは、白洲正子や、宇野千代、青山和子たち、女性だけだったのではないだろうか。
妻子や生活があった文士たちは、ムウちゃんを坂本睦子という実名を隠して、事実を自分の都合のよいふうに捕らえて書いた。
小説の中だけでなく実際にも、自分の都合のよいふうに愛していたのだろう。

白洲正子は、 《自殺は、実に見事に、一糸乱れず行われた。 美しい人にふさわしい死に際に、私達は敬意を表するが、 はたしてそれは見掛けほど単純に、 麗しい最期であっただろうか》 と、追悼の文章に書いている。

この時代の文壇の世界に憧れを持っていたであろう久世光彦は生まれるのが数年遅かったからこそ、出会えることができなかったムウちゃんという女のことを書けたのであろう。
ムウちゃん自身が死仕度を進めながら過去を回想しているという形式を取っているこの本からは 久世光彦のムウちゃんへの愛情や、恋の想いが感じられる。
出来るものなら、ムウちゃんに惑わされてみたかったことだろう。

オンライン書店ビーケーワン:女神  女神  久世 光彦

  
posted by tsukikohime at 18:15| Comment(2) | TrackBack(0) | 久世光彦 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年03月26日

3月26日物語 : ホラーじゃないほうの

佐藤浩市主演のホラー映画 「感染」 の原作本と勘違いして息子が借りてきた 仙川環 の 
感染
結局、 空くんも海ちゃんも私も読んでしまいました。

オンライン書店ビーケーワン:感染  感染  仙川 環著
 
医学部出身で医療問題を中心に活躍しているジャーナリストの仙川環さんは、 この「感染」で、 第1回小学館文庫小説賞で大賞を満票で受賞し、 2002年に作家デビューしました。
タイトルからもわかるように医療の現場を題材に書いたものです。


ウィルス研究員の葉月は、 アメリカで臓器移植を手掛けていたこともある高名な外科医・仲沢啓介から感染症に関する最新の知識を学びたいと請われる。
臓器移植後の患者は免疫抑制剤を服用するから、 さまざまな感染症の危険にさらされるのだ。 
週に一度ほど勉強をしにきていた仲沢だが、 ある晩酔って強引に葉月を抱いた。 それから一ヵ月後、妻と幼い子供がいるはずの彼から 「妻とは離婚したから」と求婚される。

事件は前妻の電話から始まる。 5歳の息子が行方不明になった。 息子の父親である仲沢に連絡がつかないから葉月に来てほしいと言う。
翌日、 幼子は焼死体で発見されるのだが、 夫の行方もわからない。
 
前妻の子が難病でかつて臓器移植を受けていたことも知らされていなかった葉月は、同時期に移植を受けていた他の幼児も最近火事で焼死していたことを知り、この事件に疑念を抱く。
夫が関わっているのではないか。 しかし渡米して臓器移植をさせた自分の息子に手を掛けるはずが無いではないか。 

子供の臓器移植が認められない日本の医療の現状、 闇の臓器売買、 そして魔の技術と呼ばれる異種移植 (動物の臓器を人間に移植する) の問題などがからんだサスペンスものです。  ホラーではありません。

医療ジャーナリストでもある作者には得意とするところでしょう、 展開も早く(ちょっと早すぎかな)、 一気に読ませてくれましたが、 主人公葉月の悲しみに対するフォローが物足りなかった。  葉月さん、女として可哀想。  あまりにも早くに立ち直ってしまったのは、 字数制限があった賞の応募作品だったせいでしょうか。 

医療ものは好きです。 医療ジャーナリストの仕事の傍ら、今後も医療ものの作品を書いてほしいです。 お待ちしております。 
posted by tsukikohime at 21:58| Comment(0) | TrackBack(1) | さしすせそ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年03月23日

3月22日物語 : 蛸の夢

昨夜の夢は、あきらかにゆうべ食べた蛸の卵のせいだった。

薄い膜に覆われた丸いものが、熱を加えるとくるりとめくれる。
と同時に合弁花のように根元がまとまったまま米粒みたいな卵が鍋いっぱいに広がる。
見た目は一回り大きな米粒のようで、食べると炊いたご飯に似た味がする。
魚屋は 「ぽくぽくしておいしい」 と言った。 
ぽくぽく? 
私が付けた味付けは卵の中まで染み渡らずに、噛むと蛸の卵本来の味がした。
それは、「ぽくぽく」 というより、「もきゅもきゅ」 だった。
蛸の卵

食感や見た夢の雰囲気を人に話してわかってもらうのはむづかしい。

夢の中で、蛸の卵はゆらゆらと海の中を漂っていた。
蛸のおかあさんと私もゆらゆらと漂いながら もうすぐ生まれますね、などと話している。 赤ちゃんはいいですよね、 赤ちゃんは可愛いですよね。 何千匹も生まれるんですね、すごいですね。 海中、蛸だらけですね。 
私は蛸の卵をゆうべ煮て食べていたから内心はらはらだ。 
蛸のお母さんにばれやしないか。
わくわくと赤ちゃんの誕生を楽しみにしているような顔で蛸のお母さんと話をしている。 何千、何万もの小さな蛸が生まれる様を見てみたいと本当に思っているのだが。

たくさん生まれてもねー、すぐに他の魚に食われたりしてしまうんですよ、 だからたくさん生まないとねー、何千匹生んでも立派に育つのは5匹くらいなんですよ。 一生懸命、生んでもね、それだけなんですよ。 千生んでも2千生んでも我が子が死んでしまうのは悲しいですよ、あなたも母親ならわかりますよね。
 
私は海の中で冷や汗をかいている。 この蛸かあさんは私がゆうべ蛸の卵を煮て食べたことを知っているのではないだろうか。 私の体から蛸の匂いが流れているかもしれない。

実は知っている。 知っていることに私も気付いていて、 知らぬふりしていつどうやって逃げようかと考えている。

蛸につかまったら蛸のだんなの嫁になって子をいっぱい生ませられる。
私はあんなもの生みたくない。 
まあるい大きなものを生んで千も2千も蛸が膜を破って出てくるのだ。
それにどうやって蛸と交尾するのだ。 出来やしない。 だから大丈夫、私は蛸の嫁にはなれないのだ。

蛸かあさんは、隣でぷわぷわ漂いながら言った。
「安心して、ちゃんと交われますよ。」
蛸かあさんの顔は怖かった。 蛸の怖い顔はどんなのか、見ていないのに怖い顔をしているのがわかった。


川上弘美の 龍宮という本の中に 北斎という話がある。

人間の姿をしているが、自分は蛸なのだという男が出てくる。
仕事を無くして海岸で波を眺めているといつの間にかそばに居た。
自称蛸は、酒をご馳走してくれと男にタカリ、 男もつい承知して一緒に飲みに行く。 人間の女にはオレはモテるんだなんて話をする。 人間の女なんて簡単だ。だけれどもどうも人間界には馴染めない。 オレは蛸に戻りたい。 そんな話を聞きながら、この蛸と自称する男から逃げたいと思う反面、離れがたくもなくなっていく。 どうせ金が尽きるまでの付き合いだ。 何軒かはしごして金が尽きれば、自称蛸もまとわりつかなくなるだろう。

オンライン書店ビーケーワン:竜宮 竜宮 川上 弘美著

川上弘美の話には、異形のものがよく出てくる。
目の前の世界にしがみつきたいとかや人間らしく生きることに頓着していないような言わば無気力な人間のそばにゆらゆらとやってくる。
この世もあの世も日常も非日常も始まりも終わりも人間も人間でないものも同次元に置いてしまう川上さんの世界。

読んでいてストーリーそのものが読み取れないこともある頼りない読者だが、文章の心地よさとなまめかしさに惹かれてまた川上弘美を手に取ってしまう。

川上弘美の書く世界の中に自分が持っている領域と似たところがある気がして、だからこそ、ずっぽり入ってしまうとアブナイなと思う精神状態のときは避けている。  
自分が本当にこの世に生きているのか、 窓の外では世界は動いているのか、 明日と昨日はどこにあるのか、 あのひとやそのひとはどこかにちゃんといるのだろうか。  疑わしくなってしまうのだ。
posted by tsukikohime at 01:40| Comment(2) | TrackBack(1) | 川上弘美 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年03月22日

3月21日物語 : ぷにゅぷにゅ


ハモニカ横丁という、吉祥寺にまだビルがひとつも建っていない昔からあるバラック小屋の集まりみたいな横丁があるのですが、そこのお魚屋さんで買いました。
なんだと思いますか?


DVC00098.JPG



朱川湊人都市伝説セピアを読み終わったあとに、奥田英朗マドンナ重松清送り火を同時に読み進めていたらどれが誰の書いたものだかわからなくなってきました。

この3冊、どこか雰囲気が似ていたんですよ。 

だってね、 重松清が幽霊や亡霊や超常現象みたいなもの書くとは思ってなかったんです。
これで浅田次郎も読んでいたら完璧に混乱状態に陥りますね。

「家族」 を書かせたらぴかいちの重松清 と言われてますがそれにホラーが加わったのはこの本が始めての試みだそうです。

オンライン書店ビーケーワン:送り火  送り火  重松 清著  文芸春秋

架空の私鉄沿線 「富士見線」沿線に住む市井の人々の身に起こる独立した9つの物語です。
全作がホラーではありませんでしたし、 ホラーといってもそんなにホラーホラーはしていませんでした。 ホラーホラーって言い方、変ね。 強調してみたんだけど。
重松清の話って、テーマや舞台が似ていて、いつか読んだような気が毎度してしまうのですが、 そのイメージを壊そうとして少しホラーっぽくしてみたのでしょうか?  おかげで他の作家と似てしまったようにも思うのですが。  

でもね、ちゃんと泣かせていただきました。
今回はひっかからないぞと思うのですが、 やっぱり重松清の書く「家族」の話は、いつか読んだような気がしていても、ぐっと胸に迫るものがあるんですよ。
うまいんですね、つまり。


先日書いた移動図書館の来る日で、息子の空 (重たいから持たせるために誘った) といっしょに33冊借りてきて、帰って広げてもうあれもこれも読みたくて気が急いてしまいました。  いっぺんに多量に本がやってきた日はつい並行読書をしてしまいます。
試験休みで家に居る空は一日で単行本を4冊、 春休みの海は2冊読み終えて、 あれもこれもおもしろい、 早く読んでみてよお母さん、 とせっつかれて、 まあうらやましいやら憎たらしいやら、 お母さんはご飯も作らなくてはならないし、 洗濯も掃除も買い物もあるのよ。
今日の夕食の一品はこれよ! と先ほどのものを見せて少し驚かせてやりました。

なになにこれなに? と指でぷにゅぷにゅ突ついてました。

生姜を2,3片入れて醤油と砂糖と酒で甘辛く煮て、七味をちょっと振りかけて食べました。 

一年のうちこの時期3週間くらいしか出回らない、蛸の卵です。
あの丸い中から一匹の蛸がずるりと出てくるのではなく、なかに百匹ぶんくらい入ってます。 こんなにたくさんの蛸を食べちゃうなんてちょっと罪悪感ですが、それを言ったら、タラコも筋子も数の子も食べられなくなってしまいます。
蛸さん、おいしかったよ、ありがとう。
posted by tsukikohime at 01:31| Comment(4) | TrackBack(0) | さしすせそ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年03月20日

3月19日物語 :セピアの頃


18日の土曜日は海ちゃんの卒業式でした。 
そのあと謝恩会があり、別れがたくてまた場所を移してお茶会をしたり、いつまでも何枚も記念写真を撮りあったりで、お母さんがたはもう疲れてへろへろ、スーツはしわしわ、化粧はよれよれなのに、子供たちは元気いっぱいではしゃいで離れがたくて。

卒園、卒業の節目節目の度にひとつ大きな仕事を終えたような、ぐんとまた年を取ってしまったような。

埼玉や千葉、神奈川から通ってきていた子たちも多く、 卒業してそれぞれまた別の私立中学に行ってしまうので、同窓会くらいでしかもう会えないかもしれませんね。  

今日は朱川湊人の 都市伝説セピアを。

この中には5つの短編が収められています。
  アイスマン
  昨日公園
  フクロウ男
  死者恋
  月の石
 
          
オンライン書店ビーケーワン:都市伝説セピア  都市伝説セピア  朱川 湊人著  文芸春秋
 
独立した5つの短編ですが、 どれも1970年頃に幼少期を過ごしただろう主人公たちの話でした。 
あの頃は。 当時は。 と、セピア色の写真を眺めるように当時の記憶が現在の主人公に影響している物語です。

特に好きだったお話、 昨日公園

公園で親友のマチとキャッチボールをして遊んだ日の夜、主人公遠藤の家の電話が鳴った。 マチが公園の帰りに車に轢かれて死んだという知らせだった。

親友の死にひどくショックを受けた遠藤の足はその翌日、 自然と昨日マチと遊んだ公園に向かう。 遠藤の足元にボールが転がりそれを拾い上げると昨日マチと遊んだボールだったことに気付き不思議な気持ちで公園の中に足を踏み入れる。
すると、同じ場面が繰り返されるのだ。
マチは生きていて昨日と同じ会話を始める。
遠藤は気付いた。 これは、どういうわけだかわからないがタイムスリップしてしまったのだ。
親友を死なせないで済むかもしれないと思った遠藤はマチを家まで送って行くと提案した。 無事家まで送り届けてほっとした遠藤だったが、その夜また電話が鳴る。 親友のマチが車に轢かれた。 家に帰ったあとおつかいに出て轢かれてしまった。 それも昨日はタクシーだったのに今度は巨大なダンプカーだ。

翌日、公園に行くとまたタイムスリップ。 
今度こそ、親友を死なせまいと頑張る遠藤だったが、マチは別の事故でまた死んでしまう。 
もう一度、 明日こそ死なせないぞ。
ところが、その願いと遠藤の東奔西走もむなしく、マチは何度も死に、 死ぬたびに前よりも悲惨な死に方になり、マチの家族までも巻き込まれて死んでしまう。

どうしたらいいのだろう。
マチにこれ以上、苦しい思いをさせたくない。
何度も何度も死の苦しみを味わせたくない。

小学生の少年の胸は痛む。
生きていることの意味なんてわからないし、 人生の仕組みもわからない。
けれど、 ただ一つだけわかったことがある。 
死はまるで駄菓子屋のくじ引きのように、 ある日突然当たってしまうものだと。
・・・だまって従う以外に道はないのだ。

遠藤は大好きな親友のマチのためにどんな辛い決心をしたのか。

だいたいご想像できるとは思いますが、 読者の想像をはるかに越えたものを書いてくれるのが 朱川湊人のすごいところ。 
一回、泣かせただけでは済みません。
それから30数年後に、大人になった遠藤が我が子と同じ公園で遊ぶのだが。

っと、ココまでですね。 これ以上は話せない!

ホラーというジャンルに組み込まれやすい朱川さんですが、この作品やこの本だけでなく、郷愁感漂うセピア色の遠い昔にタイムスリップしたようなせつなさを残してくれる作品が多いです。

セピア色の遠い昔があるということは、それだけ長生きしているという事なんでしょうけど。

小学校を卒業したあの子たちも30数年後には今日の日はセピア色に見えるのでしょうか。  

卒業 おめでとう。
posted by tsukikohime at 00:27| Comment(4) | TrackBack(0) | 朱川湊人 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年03月17日

3月17日物語 : 小説家志望の方へ


初めての作家のどの作品を最初に手にしたかによって、今後の彼(彼女)とのお付き合いが始まるのかどうかが決まるわけだけれども。

作家本人が、 
「どうしてあのようなものを書こうと思ったのか記憶にない。 気紛れだったのだろう。」 
と言っているいつもとは毛色の違うという作品がその作家との出会いの作品になってしまっていいものだろうか? 
ま、仕方がない。 そうなっちゃったんだもの。
 
それに 「ミステリー作家」の「ミステリー」だったら、ずっとご縁がなかったかもしれない。

有栖川有栖 の 作家小説

オンライン書店ビーケーワン:作家小説  作家小説 有栖川 有栖〔著〕 幻冬舎

有栖川有栖 を始めて読んだ私には、  「あのミステリー作家の有栖川さんが」 みたいな比較ができないのですが、 ブラックユーモアを含んだ軽い読み物として楽しめました。 
筒井康隆に似ているかな。

作家という職業を主題にした短編が8編。
作品を生み出す作家の苦悩は、けっこうおもしろいネタになるだろうなと思って、多分、ブラックに笑わせてくれるだろうと期待したとおりです。

有栖川さんは、 「本書に収めた作品は、 ミステリでもホラーでも冒険小説でもなく、 SFでもファンタジーでも漫才(?)でもない。」 と書いてますが、 読んで楽しめたからには私にとってもジャンルなど、どうでもいいです。

この中では 「サイン会の憂鬱」 というのと、 「書かないでくれます?」 が面白かったです。
「作家漫才」 という話は、売れない小説家ふたりが 芥川正助(あくたがわしょうすけ)と 直木正太(なおきしょうた)という名で漫才コンビを組んで、 作家業、 出版業界、 評論家のことなどを漫才ネタにしているという話なのですが、 なんか単純に笑えました。

有栖川有栖のミステリーも笑えるの?
今度、読んでみよう。
と、思ったのだから、 まあ良い出会いだったのではないでしょうか。

小説家をめざして一生を棒に振っちゃいけないよ、たとえひとつふたつ賞を獲ったって、食べてはいけないんだし、そのあとも締め切りや創作の地獄の苦しみを味わう事になるんだよ・・・と、作家志望の人に夢を諦めるよう説得しているような本でした。
posted by tsukikohime at 22:23| Comment(2) | TrackBack(1) | あいうえお | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年03月16日

3月16日物語 : 楽しんでますか


そう、こどもの頃、こどもはけっこうしっかりあれこれ考えていた。
「おとな」という不思議な生き物を興味を持って観察していたし、 大人が居なければ生きていけない事はわかっているうえで、 気を回したり、 不思議がったり、 おもしろがったり、 心配したり、 怖がったり、 バカにしたり、 感心したり、 していた。

少し古いけれど、2002年に芥川賞を受賞した 長嶋有 の 猛スピードで母は を読んだ。

オンライン書店ビーケーワン:猛スピードで母は  猛スピードで母は 長嶋 有著 文芸春秋

猛スピードで母はは、 小学六年生の男の子の目線で、 カップリングの サイドカーに犬 は、 小学四年生の女の子の目線で描かれている。

長嶋有って、女性だと思ってました。
読めば読むほど、男性が書いたとは思えなくて。 
ああ、男性でもここまで女性(母親)の気持ちが書けるんだと驚きました。
長島有のこの二編は、 男性らしさが感じられない。

前々から思っていたことですが、 上手い男性作家ほど、 女性的な要素を多く持っているんではないかなと。 そういう男性作家に主夫や子育てを任せたらきっとハマるだろうし、上手くやれるんではなかろうかと。
すべての女性に母性があるわけではないように、 一部の男性にはかなり母性が強い人がいて、そんな男性が作家になったりすると、女になったり男になったり子供になったりして観察力にすぐれたものが書けるのではなかろうか。
それと同じことが、ひっくり返して女性作家にも言えるように思います。
ジェンダーギャップの少ない人が作家には多いのではないかなあ・・
・・なんてつきこさんは思いました。

この物語ふたつは、子供のもやもやとした不安感や心細さがよく出ていて色んなことを思い出してしまいました。

子供というのは、 無垢で無邪気なんかじゃない。 
無邪気なフリもちゃんとできるほど、 しっかり人間だった。
おとなの弱い部分を見て、 情けながったり不安になったり安心したり。
おとなのたくましい部分を見て、 憬れたり尊敬したり。

近所の人達、親戚の人達、学校の先生も観察するのはおもしろかった。  
だけれども、命を握られている弱みがあるから、親に対しては、 その言動に一喜一憂もするし、 子供としては親にいちばん神経を使った。

母親は今日も居るだろうか、 父親は今日も帰ってくるだろうか、 幼稚園で泥団子を作って、 滑り台の上から転がし、 壊れなかったら、 きっと今日もお母さんもお父さんも居る、 なんてジンクスみたいなもん作ってたなあ。  壊れると、壊れないのが出来るまで作り続けたりして。 なんて思い出した。
両親が別れてしまったのは、 あの日、壊れた泥団子を作り直さなかったからだと、責任やら後悔やら罪悪感を感じてしまったりして。
語彙力がないから、感情の説明ができなかったことが残念。


六年生と中学二年生のわたしの子供たちは、 この母をどんなふうに眺めているのだろう。  生まれた日からずっと一緒に居て日々成長する姿を見ながら、 おもしろい生き物だなあとこちらは思っているのだけれども、 子供たちから見ても、 おもしろい生き物に見えてるんだろうな。
  
そう思うからときどき、ひどく不安にさせない程度で、びっくりするようなことをしてみたりして、楽しませてます。  
とかなんとか言って実はわたしが楽しんでます。
posted by tsukikohime at 23:58| Comment(2) | TrackBack(1) | 長嶋有 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年03月15日

3月15日物語 : 移動図書館


読んで 「こ、これは・・・ んー、なんといったらいいのか・・・、つまらんぞ!」  というものを記事にするのって、もうすでに、その作品に対して、何か考える気も起こらないので文章にしにくいのですが、 だから、過去にここに書いたイマイチ本は、ぴんと来なくても書けただけマシだったというくらいなもんで。
読んでも記事にしないで闇に葬ってしまったものも結構あります。

「勘が鈍い」 ことがバレテしまうので恥ずかしいというのもあります。

うちの近くに2週間に一度、すごく便利な 「移動図書館バス」 というのが来ます。 大型のマイクロバスに本棚がしつらえてあってやってくるのですが、図書館まで行く時間がない人や行くのが困難な状況の人達にとってはとても楽しみなバスです。 何が積んであるかはお楽しみ。

市内には立派な図書館がいくつもあるのだからと、いちじ、廃止の動きもあったのですが、どうにか食い止められていまだ健在です。

杖をつきながらリュックを背負っておっちらおっちらやってきて毎回嬉しそうに推理小説を何冊もつめて帰るお年寄りの姿や、 乳飲み子を背負って育児や料理の本を選んでいる母親や、 幼稚園帰りにやってくる子供たちを見たら、 誰だって廃止すべきではないとわかるでしょう。

私はそのバスがやってくる時間に間に合うときは極力出かけます。
リクエスト用紙をそのバスの人に渡すと2週間後に持ってきてくれるのです。

リクエストした本だけを受け取って帰ればいいものを、「借りられた本の総冊数が多ければ多いほど、このバスは廃止から遠ざかる」  と聞いておりますもんで、よーし、私にもできることだわ!  何冊借りて良いんですか?  え?  持てるだけ?
よっしゃー! と、 短時間で背表紙だけで判断して、どかどか借りて帰る。 聞いたことのない作家でも借りる。 
うー、 舌切り雀のお話の欲張りなばあさんみたいだなー、なんて思いながら大きめの紙袋ふたつに詰めてひーひー言いながら帰る。

家に帰ってから、リクエストした本と、たまたま見つけた“読みたかった本” と、 背表紙だけで選んだ本を取り出して、あらためてゆっくり眺める。
これが楽しい。 うっひっひ、なんて気持ちで、 うーん、やっぱり舌切り雀のばあさんだなあ、こりゃ。

で、舌切り雀のばあさんほどには痛い目にあわないけれど、 10冊に1冊くらいは、 なんだいったいこりゃあ、みたいな目にあう。

ここまでひっぱっておいて紹介するのも著者に失礼なことかもしれないかしらんと思いますが、つきこさんのタイプではなかっただけでありまして。
「備忘録」でもありますので、 こんなものも読んだっけかなーということで、 今後は、なんだいったいこりゃあ、時間を無駄にしてしまったよ〜(泣)本も記録していこうかと思っております。

オンライン書店ビーケーワン:紙飛行機ドライブ 紙飛行機ドライブ 衛藤 美香著 文芸社

映画化を想定してるようなお話でしたね。 天国の本屋みたいな。 ラヴレターみたいな。 せかちゅーみたいな。。。  誰だろう、衛藤美香(えいとうみか)って?
わたしは聞いたことがない。
うしろの著者プロフィールを見ると、 

1980年生まれ。
大分県在住。
好きな映画監督は岩井俊二。

しか書いてない。 脚本家の卵かな?  ・・でした。
posted by tsukikohime at 23:58| Comment(2) | TrackBack(0) | あいうえお | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

3月14日物語 : 吾妹子哀し


先日、新聞の人生相談の欄で、 90歳目前の男性の 「妻を2年ほど介護したあと、体力がついていかず、妻を施設に入所させたが、 自宅介護のおり、認知症でおかしな言動をする妻に暴力をふるってしまったこと、そのときの妻のきょとんとした顔などが思い出されて、後悔の念で夜もろくに眠れない、どうしたら私の心は癒されるだろう」 というのを読んだ。

90歳が90歳を介護する。  
これ、日本の現状はおかしいですよね。

介護施設でヘルパーとして働いている友人がいるのですが、 時給はマクドナルドでアルバイトするより低いと聞いて驚きました。 
認知症や老人の病気などに対する知識も必要だし、精神的にも安定している人でないと難しそうだし、体力的にもきつい。 続かずに辞めていく人が多いってわかりますよ。

オンライン書店ビーケーワン:吾妹子哀し  吾妹子哀し  青山 光二著  2003.6  新潮社


アルツハイマー型認知症で、妻は記憶を喪いつつあった。失禁や徘徊を繰り返し、その介護にあたる老作家の夫。

齢90を前にした夫は、老いた認知症の妻を、あるときは涙し、あるときは愛しくて抱きしめる。

90歳間近の夫の体力と気力がすごいなと思いました。
そして記憶力。

妻はどんどん過去を失っていく一方、主人公は若き日の妻との衝撃的な出会い、駆け落ちのことなど過去の思い出を鮮やかに蘇らせていく。

川端康成文学賞を受賞した作品ですが、 これのすごいところは実体験を基に書いているというところ。  
青山光二が執筆したのが満90歳のときなんですって。
 
60年以上も前の妻への激しい愛の想いを回想している部分と、ふと現在に戻りアルツハイマーの老女を見やる視線の部分が上手に組み合わさって、読ませてくれました。

嫉妬心を忘れない女の部分、 童女のような愛らしさ、 「わたしって、あなたが好き、いちばん好き」 などと甘える老妻、 添い寝してキスして抱きしめてセックス(ちょっと驚き!)もする。 


  (自分の愛に責任をもたなければ―) ・・略・・
  それが人間というものではないのか。 あのように全身全霊をかけた
  自分の愛を今も疑うことはできない。
  あの愛は記憶の中にあるだけかというと、 そうではない。 
  今も愛は生きている。
  それなら人間らしく、 愛に責任を持たなければ―。  
  時の流れがとまるまで。 
  Till the end of time
  Till the end of time

そうは言ってもね。 青山さんはできたかもしれないけれど、ふつう、90歳にはどんなに愛があったとしても、 キツイでしょ。
辛いでしょ。  
だから痛ましい事件が頻繁に起こるんですよね。
新聞に載らない悲しいはなしは山のようにあると思いますよ。
posted by tsukikohime at 02:18| Comment(4) | TrackBack(1) | あいうえお | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年03月13日

3月13日物語 : 満開の桜の木の下で


こどものころ、お花見が怖かった。

おとなたちが遠足のお弁当の時間のようにシートをひろげ、お重を並べ、それはとても美味しそうなのだけれども、一升瓶が立ち並び、七輪で鍋物や鶏を焼いたりして、きちんと座っていないであちらこちら移動しながら、それもふらふらとした足取りで移動しながら歌までうたって、踊る人まで居たりして、 「お花見」 だと聞いていたのに、 「桜をめでに行くのよ」 と聞いていたのに、桜が満開でそんなに嬉しくて騒いでいるのか、それなのに、 めったに木を見上げず、 あげくのはてに酔って寝転んでこんなことを言う。

「満開の桜の木の下には死んだ人が埋まっている」

必ず誰かが言い出す。 それを聞いたほかのおとなも 「そうそう、満開の桜の木の下には人が埋まっているんだよ」 と楽しそうに繰り返す。

ひっとなって立ち上がるわたしを見て酔ったおとなが笑う。

毎年毎年くり返し聞いているうちにこれはお葬式なのかと思った。  父の故郷で年取った誰かが亡くなったというので連れて行かれたときなど、 隣の間で顔に白いものを被されて横たわっている人がいるというのに、  「いやあ、大往生だったね」  「102歳まで生きれば幸せだ」  「あれま、けんちゃんじゃないの、まあ、りっぱになって」  「としこはまだ嫁に行かんのかあ」  「どーれ、その赤んぼ、抱かせておくれ」 「めんこいなあ」  「いやあ、なんだかオレにちっとも似てなくて」  「裏の良太に似ちまってないか」  「それはまずいんでないかい」 
などと、なんだかわいわいと楽しそうなのだ。 (注: 方言あやふや)

それと似ている。 
それにしても、こんなところに死体を埋めっぱなしでいいのだろうか。
桜の木の下に人を埋めるのはよくあることなのか。
それとも埋めた場所には桜がにょきにょきとものすごい勢いで生えて妖しく咲いてしまうのか。
どちらにしろ怖い。

中学生になって、坂口安吾桜の森の満開の下 を読む機会にめぐりあえて、 やっとわかった。 
おとなたちは、このことを言っていたのだ。  桜の木の下に行くと思い出してしまう人が何人もいるほど有名な話だったらしい。  合点がいってほっとしたけれど、 その内容は忘れてしまい、 ただ 「桜の木の下には人が埋まっている」 というフレーズだけがずっと頭から消えないまま今日までいる。  桜の季節がやってきて、お花見の計画など持ち上がると必ずそのフレーズが浮かんでしまう。

やっとまたこのはなしにめぐりあえて読めて、 川上弘美さん、 ありがとう、と思った。 この中に入っていたのだ。

川上弘美

恋愛小説アンソロジー  感じて。息づかいを。  川上弘美 選  光文社文庫
こういうのは、どの作家が出ているのかを重要視していて、 誰が選んだかはあまり気にしていなかったと思うのだが、 これは 川上弘美 が8篇の作品を選んでいる。 
川上弘美ファンのわたしは飛びついた。 

もう、やっぱりさすがの川上さん!  
これらを “恋愛” というものに結び付けて数ある中から選び出すなんて。
男と女が好きだ惚れただの言い合わない、べたべたしない物語たちばかりで、 心臓がきゅっ、ちくんとなりました。  これは “コドモ”ようじゃなくて “オトナ”ようよ、ふっふ、と思ったりして。


カテゴリー分けをしてしまった私のブログ内の 川上弘美 のところに入れようか アンソロジーの中に入れようか、迷いに迷ってしまいました。
うーん、 これらの作品から “恋愛の息づかい” を感じていただけたらと川上さんは書いているが、 これらを選んだ川上さんの息づかいを感じてしまってもいるので、 川上さんのカテゴリーに入れたい。 でもアンソロジーだものなあ。 時々、川上弘美 に入れたり アンソロジー に移動したりするかもしれません。

桜の森の満開の下     坂口安吾
武蔵丸            車谷長吉
花のお遍路          野坂昭如
とかげ            よしもとばなな
山桑             伊藤比呂美
少年と犬           H.エリスン (伊藤典夫 訳)
可哀想            川上弘美
悲しいだけ          藤枝静男



*追記* 梶井基次郎 の 桜の樹の下には という小説の冒頭も、
  桜の樹の下には死体が埋まっている!
  これは信じていいことなんだよ。
  何故って、桜の花があんなにも見事に咲くなんて信じられないこと
  じゃないか。 俺はあの美しさが信じられないので、 
  この二三日不安だった。しかしいま、やっとわかるときが来た。
  桜の樹の下には死体が埋まっている。
  これは信じていいことだ。

で始まります。 桜の木の下には・・・は、梶井さんのほうが有名でしょうが、 桜の木の下の物語としては坂口安吾さんのほうがずっと好きです。 機会がありましたら読み比べてみてくださいね。
posted by tsukikohime at 23:59| Comment(6) | TrackBack(1) | 川上弘美 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年03月10日

3月10日物語 : 酔って言いたい夜もある


酔うとあのひとはわがままになる。 なるようだ。 どうも。

長いつきあいなのに、まだ一度もいっしょにお酒を飲んだことがない。
でも、わたしはアルコールのはいったあのひとを知っている。
「飲んでました」と言うのだが、 足元が怪しげになるわけでもなく、 目が赤くなるわけでもなく、 アルコールの匂いに顔をしかめるほどではなく、 ほとんど普段と変わらない。

1センチほど饒舌になり、 2センチほどエッチになり、 30センチほどわがままを言う。
逢うまでわがままを言う。 逢ったらわがままを言ったことなどは忘れてしまった顔で、 わたしもあのひとのわがままを忘れてしまう。  逢えば忘れてしまうのだ。

1センチほど饒舌になって2センチほどエッチになったあのひとと逢う夜は、 10センチほど風変わりな場所でデートする。 

救急病院の、車もまばらな駐車場に車を止め、 出入り自由な暗い静かなロビーや広い前庭、 点在するいくつかの小さな裏庭をひそひそと歩く。

別のところに移動しませんか。 
わかりました。 どちらに。
どこか、どこでも、とりあえずあっちの方角に。 
車は少ないけれどその手はオトナシクしててください。 
わかりました、ごめんなさい。 
危ないからこの手をどけてください。  
冷たいですねつきこさん。  
運転中です。  
わかりました。
 
野川公園に隣接する武蔵野公園の脇に車を止める。
明かりは少なく慣れるまで草に覆われて見えない足元をそろりそろりと歩く。
浅い細い川をあのひとに背負われて渡る。
遠くの街灯に照らされたぼんやりとした木々の影をたよりに勇気を持って歩く。
低い枝を手で押えてもらいながらくぐる。

1時間も2時間も歩く。

疲れると立ち止まって星の少ない空と広がる暗闇を見渡す。

あちらに向かって歩きましょうか?
あのひとの指差すあちらを見る。
草に覆われた広い地面が続くあちらも、 木々が並ぶあちらも、 橋の見えるあちらも同じことだ。

疲れました。
もう、ですか。
おんぶしてください。
体力不足ですね。
はい。
ぼくばかり鍛えられてしまいますよ。
はい。
逃亡者のようですね。
逃亡者?
こんな真夜中に暗い広い野原や木々の間をあちらこちらに歩いて。

こんな真夜中のここへ来ようと言ったのはあなたではないですかとわたしは思うがわたしは言わない。 楽しくて言わない。 代わりに、 何から逃亡しているのかしらと聞いてみる。

だいじょうぶ、 だれもぼくたちを追ってはきませんよとなぐさめられる。

逃亡者のようですねと言ったのはあなたではないですかとわたしは思うがわたしは言わない。 嬉しくて言わない。

満ちていく月に向かっていくへたくそなオムレツのような月を見上げ、 ああ、あなたはとってもわがままだ、とおもう。

酔って言いたい夜もある

オンライン書店ビーケーワン:酔って言いたい夜もある  角田光代


お酒が入ると少しだけ饒舌になり緊張もやわらぐという角田さんの理想の対談形式は、
たとえば、 どこかの温泉宿に昼過ぎに到着し、 風呂などゆっくり浸かったのち、 酒を酌み交わし同じお櫃の飯を食い、 一晩眠った翌日の夕方頃、 ちびちびと酒を飲みながらゆるやかに始まる対談。 
しかし温泉に宿泊している物理的時間がないため、 理想の短縮型を行なった。
レストランや居酒屋で、 直箸で同じ皿の料理を食べ酒を飲みながら、の対談。

第1章 魚喃キリコ
  うちらのモロさとか弱さを感じることのできない男のなんとバカげたことよ
第2章 栗田有起
  「私は自分を恋愛でいっぱいにしたいんだわ」というのがわかっちゃうとダメなんです

【コラム】 「中央線」 ランチ写真日記

第3章 石田千
  刑事じゃないけど、吐いたら、楽になるんですよ
第4章 長島有里枝
  結婚なんか、中学の先生が朝練に出なきゃダメだっていう理由ぐらい大したことでもない

お酒が入れば口が滑らかになると言っていた通り、ずいぶん滑らかで、あらそんなことまで話してしまっていいのかしらと心配してしまうようなことまでぽろぽろと。

角田さんとゲストの方が食べたお品書きと店の案内も出ています。

エッセイよりもぐっと生の声が聞けて、角田さんのファンには嬉しい一冊ではないでしょうか。
イメージが壊れてひいてしまうか、身近に感じてますます好きになるのか・・は知りません。
posted by tsukikohime at 21:06| Comment(8) | TrackBack(0) | かきくけこ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年03月08日

3月8日物語 : 生きていく人



フィットネスクラブを舞台に6人の人間を主人公とした連作短編。

女を傷つけて捨てることをなんとも思わない美しい肉体を持つ男
出会い系サイトにはまる37歳の子持ちの主婦
会社を辞め古本屋を始めた中年の男
年老いた母親といつも行動している35歳の娘
尻の軽い受付嬢
妻が失踪したという噂のスイミングコーチ

オンライン書店ビーケーワン:しかたのない水  しかたのない水  井上 荒野著  新潮社

6人それぞれを主人公としたとき、別の話の主人公が脇役として見え隠れする。

彼らを描写する作家の視線は突き放したように冷ややかで、刃物のような文体とマッチして彼らの孤独と喪失感を浮き上がらせる。

石田衣良 の LAST を思い浮かべましたが、 この話には明日への希望や救いが見えない。

失ったものを抱え込み、または失ったことに気付かずに、 ほんの少し壊れているような自分自信と しかたのないようにつきあって生きていかなければならない人間というもの。
ひとつひとつ読み進めていくにしたがって本がどんどん重くなってくるような気がしました。

屋内のスイミングプールの湿った暖かい空気。
見知らぬ人々の無防備な半裸と汗。
開放と緊張。
水圧と浮力間。
反響する音とくぐもった声。
緊張感とあきらめ。

  同じように日々を重ね、 年を重ねているようでも、 人間には、 生きていく人と、
  死んでいく人がいるのだと思う。 〈略) ・・さんと同い年でも、
  私は、 おかあさんと同様、 毎日少しずつ死んでいく人間なのだろう。

井上荒野(イノウエアレノ)のファンになってしまいました。
他の作品はまだ知らないが、
この作品を読むときは精神状態が安定しているときに限ります。

わたしは (生きていく人) でありたい。
posted by tsukikohime at 10:05| Comment(2) | TrackBack(0) | 井上荒野 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年03月07日

3月7日物語 : どこかにあるかもしれない場所


小川洋子さんが描く場所や人の多くは、国籍不明な感じがします。

なさそうでありそうな国。
ないだろうけどあっても不思議ではない街や村。
なくてもいいけどあったらおもしろうそな職業。


ブラフマンの埋葬

オンライン書店ビーケーワン:ブラフマンの埋葬

この本の中で名前を与えられているのは一匹の動物だけだ。 しかしなんという種の動物なのかは明記されていない。

まだ子供で、 「僕」の腕にすっぽりおさまる
黒いボタンのような鼻
泳ぎが上手
胴の1.2倍の長さの尻尾
体毛は短く濃い茶色と薄い茶色のグラデーションになっている
足には肉球があり爪があり水かきがある
ひげがある
そして鳴かない

アザラシ? プレーリードッグ? ビーバー?

夏のはじめのある日、 〈創作者の家〉の住み込みの管理人である(僕)の部屋の勝手口のところにその生き物がやってきた。 
僕は、その生き物に (ブラフマン)という名を与える。

〈創作者の家〉 というのは、元はある出版社の社長が別荘として使っていたもので、 彼の死後、 遺言により、 あらゆる種類の創作活動に励む芸術家たちに、 無償で仕事場を提供するための家、となったのだそうだ。
作家や詩人や翻訳家はもちろん、 哲学者、 画家、 デザイナー、 指揮者、 装丁家、 カメラマン、 歌手、 染色家、 映画監督、 バイオリニスト・・・。 
自分は芸術家だ、と名乗りさえすれば、 誰でも宿泊できるのだ。

この物語のメインとなる登場人物は、 (僕)、(ブラフマン)、(娘)、(碑文彫刻師)、(レース編み作家)。

なさそうでありそうな国の、 ないだろうけどあっても不思議ではない村の、 なくてもいいけどあったらおもしろい〈創作者の家)の管理人の僕と、 小さくていたずらで愛くるしい正体不明の小動物ブラフマンとの物語。 
ブラフマンの特徴や性格などを丹念に観察した記録を読んでいるうちに、 その可愛さにどんどん惹かれていってしまいます。

ブラフマンの愛くるしさの虜になっていくのが怖い。
孤独だった僕と愛らしいブラフマンの蜜月の終結の不吉な予感が、 
夏の終わりとともに、残りページの少なさとともにじわじわと押し寄せてきます。 
あー、ブラフマン。 
タイトルからわかっていたけど、どうか不幸な事件など起こらないで。

僕の孤独とブラフマンへの愛情と娘へのかなわぬ想い。
そして物語の底辺でずっと流れている死の匂い。

(僕)は何も望まず孤独であるべきだったのだろうか?

ブラフマンを失ってからの僕の心情や日々が書かれていない。
読者ひとりひとりが、自分の中で書かなくてはならないのだろう。
posted by tsukikohime at 22:46| Comment(2) | TrackBack(1) | 小川洋子 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年03月05日

3月4日物語 : 4月になれば

オンライン書店ビーケーワン:四月になれば彼女は

四月になれば彼女は というタイトルとオートバイ(でも、カブだけど) で片岡義男を連想した私はちと古いですね。

四月になれば彼女は はサイモン&ガーファンクルの歌の題名からきたものです。

プロローグは、ある作家への 「作家になろうと思ったきっかけは?」 というインタビュー場面から始まります。  その回想が本文となる。

映画になるとしたら、 プロローグがカラーで、 回想の始まりがモノクロで少しづつ色が付き・・・という感じだろうか。

高校を卒業した三日後。 八甲田山を望む田舎町に住む仲間がそれぞれの未来に向かって散り散りになる前日を描いた話で、作者の 川上健一 の自伝的小説と言われているそうだ。

とにかく忙しい一日だ。
主人公の沢木圭太にとって人生で一番忙しい24時間だったのではないだろうか。

東京へ駆け落ち(もどき)をするという友人を彼女の家まで送り、 途中友人にばったり出会い、 密かに想いを寄せていた女の子とばったり出会い、 東京の大学に行くという虫の好かない男と喫茶店でお茶をし、 別の友人たちとばったり出会い川に魚を捕りに行き、 不良グループに追いかけられ、 空気銃で雀を撃ちに行き、 バスケットの試合に行き、 悪友たちと春を買いに行き、 姉の夫婦喧嘩に巻き込まれアメリカ軍のMPと日本の警察に連れて行かれ、 翌朝、想いを寄せていた女の子に会いに行き、 駆け落ちするはずだった友人となぜか一緒に東京に行くことを決意する。

フットワークが軽いのは、 ホンダのカブのおかげですね。 カブは燃費が非常に良い。

それにしても若さなのねー、24時間をフルに生きているという感じだ。  アメリカの連続ドラマ 「24」 を思い出してしまった。 忙しい一日です。


静かな風景と静かな日々が最後劇的なシーンで終わり 「感動」 が大きかった 雨鱒の川を読んでいたので、 四月になれば彼女は も、 劇的な感動が待っているのに違いないと長い長い小説を 「劇的感動」 に向かってがんばって読んでいたのに、 本当なら明日から地元の工場に初出勤するはずだった主人公が 「東京に行く決心をいきなりつけた」 という本人にとってだけ劇的なことが起こるだけだった。


そして回想画面はすこしづつモノクロになり、 ざわざと都会の騒音が聞こえてきてカラーになり、 インタビュー直後の作家の現在の姿。 って感じかな。


自伝的小説であんまり良いものに出会えたことないなあ。
作者が一番、書いてて読んでて楽しんでるんじゃないかしら。
一般読者を置いてかないでくださ〜い、という気持ちになりました。

川上健一の今後に期待します。 

以上。 
posted by tsukikohime at 05:57| Comment(4) | TrackBack(0) | かきくけこ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年03月04日

3月3日物語 : 桃の記憶


桃の節句を前に久世さんが亡くなった。

今まで読んだ久世光彦の小説の中では  が一番好きだ。
桃をモチーフに濃密な香りただよう8っつの官能的な短編がおさめられている。

5年くらい前に向田邦子にはまっていた時期があり、 向田邦子を読み漁ると必然的に久世光彦にたどり着く。

久世さんが書いた 触れもせで、 向田邦子との二十年 を読むことになり、次に久世さんが書いた小説に手を伸ばす。

2週間ほど前に図書館で18冊借りてきたなかに 久世光彦の 飲食男女 おいしい女たちもあって、つい数日前に読んだ作家が突然この世からいなくなるのは不思議な気持ちだ。

飲食男女は〈おんじきなんにょ〉と読ませます。

プロローグに

  《女を食べる》と言うと、何だか品がないようだし、 
  食べられる方は気味が悪いだろうが、 
  この歳になるとそんな表現がいちばん 《感じ》である。 可愛いし、
  いい匂いがして、おいしい。
  女にかぎらず、食べることは色っぽいことだと思いはじめたのは、
  ここ数年のことである。
  たとえ生きるだけのために食べるのだとしても、飢えていることだって
  色っぽいし、 空ろなものを充たしたいと希うことは、もっと色っぽい。
  味わうという言葉も、 口に合わないという言い方も、
  考えてみれば男と女の味がする。
  若い人と年とった人の好む物の違いや、 食べ方、 飲み方の違いだって、
  こじつけではなく、 色の道に通じるところがありそうだ。

と書いてある。

《ここ数年のこと》 と書いてあるが、この飲食男女が出版されたのは、平成15年。 久世さんが60代の後半に書いた文章なのだ。

久世さんはいつまでも色っぽい。      飲食男女 文藝春秋

しかし 「食べることは色っぽい」 とは、 すでに私は感じていて、 では私はずいぶんと年を取ってしまったのかしら? などと思いながら読んだ。

この中に 悦っちゃんのジャム という話があり、 5歳のときに「ぼく」の家に預けられていた親戚の16,7歳の女の人とお風呂に入る 「秘密の楽しみ」 があったという。 早熟ね、と思うのだが。  その早熟な久世さんより若いうちから、 「食べることは色っぽい」 と感じるわたしって・・。
いや、飲食と官能を組み合わせて書く小説家はたくさんいる。


プロローグ、エピローグを抜かして17の短編が入っているが、これはエッセイなのかと思ってしまうほどで、多分かなりご自分の女性経験をもとにして書かれたものなのだろうなと思う。

すべて「ぼく」 の語りで書かれているからなおさらなのだが、 「ぼく」 の年齢が時代と合っているし(合ってないのもあった)、 久世さんの 少年時代からいくつか移り住んだ地名も合っている。

だから久世さんと久世さんがかかわった女性たちとの遍歴の告白みたいだなという印象を受ける。

若いころからずいぶん女性との浮名が絶えない人だったらしいが、これだけその「景」を覚えていて小説に書いてもらえば女性も本望ではなかろうか。  でも彼女たちは他の女性に妬くのだろうか。

この中の 春の蕎麦 という話の中にこういうのがあった。
人形屋をやっている友人に久しぶりに会ったら、その友人が落ち込んでいる。 どうしたのかと尋ねると、 去年の暮れ辺りから訳ありだった女が3人、立てつづけに死んだという。

  ぼくなんか、彼の足元にも及ばないが、 それでも60何年も男をやっていれば、 
  それなりの浮いた話や、辛い話はある。 
  (・・・略・・・) 死んだふりをして自分の偽葬式を出し、 棺桶に穴を開けて、
  そこから次々に弔問に訪れる女たちの様子を覗いてみたいとは考えても、
  ほんとうに自分が死ぬとは思っていないのだ。 
  だいたい、 女たちがみんなして涙に暮れるなんて、 それは愚かで
  いい気な夢物語で、 人形屋の通夜にも、 ぼくの葬式にも、 彼女たちは、
  たぶん一人も現われない。


告別式は今月7日に執り行なわれるそうだ。

前日までお元気で2日に亡くなった70歳の久世さんは、 訳ありだった女たちが何人弔問に訪れるかを、 どこからか嬉しそうに覗いてみているのではないだろうか。

もっと書いてほしかった。  合掌。

 
posted by tsukikohime at 02:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 久世光彦 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年03月02日

3月1日物語 : 雨の南青山 ラプソディ


空くんの小学校時代の同級生のおかあさまたちと 「世界一美味しいチョコレート」を食べに行くことになった。

同じ私立の小学校から5人がそれぞれの中高一貫の私立や国立に行ってしまったが、母親の交流は続く。

チョコレートは1階に売っているが私たちが行ったのは2階のレストラン チョコレートバーラプソディ
ロンドンで行われたアカデミー・オブ・チョコレート主催のチョコレートフェスティバルで昨年11月に金賞をとった 「チュアオ」 のチョコレート。 そのチョコレートソースがかかった鴨のロースト。

鴨のローストチョコレートソース

http://www.rhapsody-aoyama.com/news.html

ブログもあります  http://aoyamarhap.exblog.jp/2668982/ 


「おかあさま」と呼ばれるのにふさわしい物静かで上品な奥様たちのはずだった・・はずだったのに。 

2時間しか都合がつかない私たちは、ハイスピードでてんこもりのおしゃべりをする。 

ロクシタンのボディオイルがいいだの、 部外者に漏らしてはいけないはずの学園祭に「ツクシックス」を見に女子高生が押し寄せた、最近の女の子はスタイルが良いのとドカンとでかいのと2極化しているだの、 永田議員の性格は破綻しているのではないか、 英語の塾はどこがいいだろうかだの、 デパートの物産展で大阪物産展に行くと「東京在住の大阪のおばちゃん」が集まってやかましいだの (我々だって十分やかましかった)、お料理教室はどこがいいだの、男の子に行く遺伝子はほとんど母親からのものだから嫁選びば慎重に、でも頭の出来具合だけは父親かららしい、 
男子校だからそろそろお年頃の子供たちは、

いったいどこで彼女を見つけるんだろうか。

塾だって。

だから、男子校の子たちは塾に行きたがるのよ。 

いいよね、これから恋がいっぱいできて楽しみな季節ね・・・ 

そうね。

まだ中2よ。

もう中2よ。

ちょっと心配ね。

そればかりはね。  親が口を出せるもんじゃないものね。

だって、女って怖いじゃない。

わたしたちも女じゃない。

だから、怖いってわかってるの。


オンライン書店ビーケーワン:female  female  新潮社

5人の女流作家による、女の怖さと色気がつまったアンソロジー。

昨年、映画化されました。

小池真理子 「玉虫」 主演:石田えり

唯川恵 「夜の舌先」 主演:高岡早紀

室井佑月 「太陽のみえる場所まで」 主演:大塚ちひろ

姫野カオルコ 「桃」 主演:長谷川京子

乃南アサ
 「僕が受験に成功したわけ」(映画では「女神のかかと」) 主演:大塚寧々 


もう恋しちゃいけないのかしら、わたしたち。 と誰かがぽつんとつぶやいた。

しんとおしゃべりが止まった 「ラプソディ青山」 のランチ。

チョコレートは甘くて苦くて女も甘くて苦くてそして怖い。





 
posted by tsukikohime at 01:39| Comment(0) | TrackBack(0) | アンソロジー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする